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性格を改善したい。

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私は人と話すときの自分の性格に悩んでます。
私の性格は考えすぎ、気にしすぎ、話しすぎです。

発達障害を抱えてるのでもしかしたら特性だとも考えられますが
それでもやはり何とかしたい思いが強いです。

考えすぎと気にしすぎは‥
相手の話に対してこう返したいけど相手を不快にさせないか?と
考えてしまい、その結果ぼやっとした返しになってしまいます。

そして後になってこう返したいというのが相手が求めてた返しと
分かって『どうしよう、相手を不快にさせた』と悩み続けます。

相手の話には興味あるので話を広げたいと思うものの気がつくと
やはり考えてしまってぼやっとした返しになり、相手が求めてた
返しができてなかったことに悩むの繰り返しです。

あと自分の話ばかりをしてしまいます、その内容は明るかったり
暗かったり。私が話し終えて相手の口調で不快にさせたと気づき
自己嫌悪に陥りますが、次会うときも話しすぎてしまいます。

ちなみに暗い話だと自分の不幸話、不幸な生い立ちなど。

言い訳をしてしまうと、幼い頃から親が望んだ言葉を言わないと
強く罵られることが多かったため、相手が望んだ言葉でなければ
不快にさせてしまうと考えてしまっています。

そして、話しすぎるのほうは話を聞いてくれそうな相手がいると
つい話し過ぎてしまいます。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「私は自由」性格なんて元々無いと知れば性格から自由になる。

これは私があなただったらの話ですワ。👠
モチロン採用して下さらなくても結構。
私自身は自分を暗示に欠けない最上の方法だと思いますので、ご案内致します。
話し半分で聞いて頂いては効果半減。本当に治したいと思って聞くのはあなたの努力次第。
実際、うつが治っちゃう人もいます。
まず、自分を障害者扱いしないこと。何故なら、それがどうしてもネガティブエネルギーを生みだしてしまい自信を無くすから。
パラリンピック選手だって、自分を障害者だと暗く思っていたらいい成績は取れません。
健康体な人でも心が折れれば自信を無くすもの。
自信を無くさせるは自己否定感情。
だから、医師からどう診断されてもゼッタイに自分を「なんとか障害だ」と思わないこと!です。むしろ自分を死刑宣告した医者にキレろ!💀と言いたいです。江戸・明治時代にそんな病名で暗示にかかって「ああ、やっぱり私は◌◌なんだ」と凹んだりオチたちやる気レスになったりする人はいませんでした。
あなたも暗示にかかる10秒前の自由な自分に帰りましょう。
あなたは自由なのです。そう、あなたは自由なのヨ。
私だったらあえて「病名なんてどうせ精神科の金儲けのためと、リピーター&ハイになれるおクスリ定期購買者獲得の為の名づけ行為」だと思って猛反発します。
絶対に自分は「〇〇病」とか思いません。それに縛られて暗示にかかって、健康でもウツや○○障害にさせられてしまった人も数名知っているからです。
思った方が楽な方は診断されてそれを信じたらよいのです。
性格を変えたければそこにとどまっていてはダメ。
人は本来病名からも自由なのです。自由なのです。そうよ、あなたは自由なのです♪
親に対しては、親の呪縛からの脱皮をイメージしましょう。
支配しているのは親じゃない。自分の親に対する劣等意識。
何もあの方たちの顔色伺いやゴキゲン鳥🐦で居る必要はもうないのです。
せいぜい実家で一緒にいる時だけイイ子ちゃん装っておけばよいのです。
あなたは自由なのです。親から自由なのです。そうよ、ラララ♪だって、親は親で呼吸している市あなたはあなたで呼吸していて何一つ取り換えっこできないのだから。
もともとあなたを縛る人はいません。
無人です。
ラララ♪
全部部自分の思いなのです。無人です。
どこにもあなたを縛る人はいません。
ラララ無人くん、ラララ無人くん。ララララ♪

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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