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妊婦検診のお金を払ってくれない

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有り難し有り難し 8

再度ご相談です。
ちゃんと役場で控除は受けてます。
それでも毎回1000〜7000円はかかります。

旦那は副住職なので義両親からサラリーマンのように毎月お給料として25万貰い、その中から二万は養育費として出ていきます。

生活費はくれますが、妊婦検診、出産入院費を出さないのは誰に話してもおかしな話ではないでしょうか?

今現在使ってるベビーグッズは前妻との間の子供が使用していた物で、俺が全部買った!と言っています。私達の子供は屈辱的にもお下がりです。

上の子の性別がわかった時もあー、前回の洋服捨てなければ良かった!取っておけば使えたのに!と言われてとても不愉快でした。

前妻の時はできて、後妻にはできないなんて私がそこまで貧乏くじ引く必要ありますか?

なぜ、自分の貯金を切り崩す必要があるのかもわかりません。その割に自分のタバコとビール代はシッカリ払うし、惜しみません。

せっかく跡継ぎになるであろう、男の子を授かることができたのに、複雑です。

今回いくら総額掛かったか計算しその合計の2倍を旦那に返してもらうつもりです。
できないのなら、両親に言う!と言いたいのですが、この両親も滅茶苦茶厄介なくせ者で誰とも上手くやろうなど思ってないし、できない人でそんな話をしたら、どんな事になるか想像つきます。

冷静にもう一度旦那に話すつもりですが、泣き寝入りになりそうです。
検診費も出産費用も払わないであっけらかんとよくできると思います。

本当は強く言いたいのですが、相手は坊さんで口が立つんです。とてもかのいません。

私の貯金がなくなったらどうなるんだろう?お金の切れ目が縁の切れ目になるのだろうかと、今から悩んでます。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

本気になっていないあなたが夫を甘やかす

本当に怒るべき時には怒らないとダメです。
それはある種モラハラです。
間接的なDVとも言えます。
あなたの方が正しいですから、大いに主張することです。
イイ顔しようとしたってあなたののぞむお金は手に入りません。
ガツンと、本気になって言えばそれで話は解決です。
一応確認ですが、普段からあなたも感じのイイ話し方をしているでしょうか?
暗い感じ、文句や愚痴風に言うとそれで嫌になって話に乗ってくれない男性もいます。
3回、やり方を変えて相手に負担の無いようにいう事です。
期待しない事。高い理想を求めない事。時分とは別感覚であるという事。
あなたは愛されていないと思っているでしょうが、彼自身義理の親からぞんざいな扱いを受けているから被害者意識モードでいるのです。
だから、ケチなのです。自分が常に被害者だから人に与えられないだけなのです。
3回掛け合ってみてください。それでも話にならなかったら、払わないなら中絶するとか、檀家総代に話をしに行く、宗務所にかけあってくるね、教区長、宗務所長に話してくる、宗派のホームページを検索して内部告発するに限ります。(笑)
口で言っても信じないでしょう。相手の方が一枚上手ですから、その上を行くつもりで臨むことです。「じゃ、言ってきます。本当にしてくるから、と言って家を出ることです。」
脅すなりした方がいいですよ。
どこまでいっても、そういうダメ男を好きになったのはあなた。
自分の男を見る目が無かったという事を反省して、そこから飛躍することです。
いざってときは離婚すればいいのですから口がウマいからって負けてはダメです。
「お坊さんでしょう?」なんて言葉で通じるような感覚の持ち主ではないのでしょうから、どんどん公にして、そういう人間は坊さん業界から追放して第三の被害者が出ないようにしてあげてください。
結論:彼のイタイところを突く。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございました。
ようやく話し合い理解をしてもらい。今後は出してもらう事になりました。
話し合いはたいせつですね。

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