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離婚調停中。シングルマザーと反抗期について

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36歳事務パートです。11歳の娘がいます。
夫から恫喝や金銭の強要、光熱水の使用制限強要等で精神的DVと思い、自分が壊れてしまう前に11歳の娘と実家に逃げ五ヶ月になります。

離婚調停し夫は「自分は変わったから戻ってほしい」と言いますが、戻れば最後、私の人生は恐怖と焦りで生きている心地も致しません。

悩みは娘の反抗期と、生活乱れと不登校です。怯える私をみて「お祖母ちゃん家に住まわせてもらおうよ」と行ってくれた娘ですが、ゲーム依存し、生活乱れ、学校に行けなくなりました。何かにつけ反抗し手に負えません。

原因は離婚調停もありますが、同居先の実家では父が癌で母が統合失調症の気配あり私が診ないと壊れそうでした。今は薬のお陰で良いものの一番ひどいときは娘のほうから「私は大丈夫だからお祖母ちゃんの話聞いてあげなよ」と言ってくれたこともありました。

その反動で抱えきれない思いがゲーム依存となり、昼夜逆転の生活、お陰で学校に行けていません。

2週間に1度くらいは学校に行けて、普通に楽しく過ごしているようで、学校ともよく相談させていただいていますが、好きなようにさせて、お母さんが少しゆっくりしたらいいと言われましたが、焦ってしまい、ゲームさえなければ…と思ってしまいます。

親のこと、夫のこと、娘のことに挟まれて、この先どうしていったらいいものか、困り果てております。
お知恵をいただけましたら助かります。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

三冊の本を同時に読もうとしない

まず3つの問題の根源は一か所だけ。あなたが相手を気にする心です。
娘、母、夫を問題にしている足元を見ることです。
ゆえに禅では脚下照顧という。意味を皆誤解してますが。
あの人が、あれが、あの事とが、と相手を問題にするのはアシモトである、此処、自分の心でしょう。
自分を取り戻して目を覚ましてください。
阿修羅になっています。
阿修羅とは、三面で6本の手。皆カッコいいと思ってフィギュアを買ったりしていますが、禅的には、錯乱状態、パニック、憂い状態な心といえます。
さてそんなパ二ウツに有効なのが、医薬品やパ二ウツ元気ではなく、問題の一本化です。
まず一旦、精神的に完全に分離をして、精神的な独立をする事!娘からもです。
誰もみんな別存在、別行動、別人生なのがこの世の基本。
夫に対してどうだったか知りませんが、今やこっちに帰ってきても、今度は母が問題だ、娘が問題だって、ちょっとおかしい。あなた肝心な自分自身に目が向いていないのではないでしょうか。
自分を生きて、生涯離れる事が出来ない、自分の心をのみ相手にするのが仏教です。
ゆえに、天上天下唯我独尊が仏教の根本です。
みんながみんな違うからこそ、自分を全うするのです。
あなたはきっと相手に対する私有化エネルギーが強いだけです。それを減らせばすぐに救われます。そのためにはシャレじゃないですが、自分と相手が別存在なのだという事をよく知ればいいのです。
娘がdaughterだけにどーったってっ娘は娘、あなたじゃない。
夫といえど初めは他人、DVなあr帰っちゃ危ない、おっとっと。
母と言えど、お腹にいた時は一緒でも今は別の存在、ははははは(母は母)。
まぁ、シャレじゃないですが(完全にシャレ)、みんな自分をソロで生きることが仏教の究極です。ソロでありながら、それぞれサポートし合うのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

回答をありがとうございました。
拝見し、自分を見うしなっていたことに気づいた部分もございました。それまでの私は自分を貫いたばかりに、家族に迷惑をかけましたので、その報いとも感じており、卑屈になっておりました。ですからなお、ここでまたそれぞれを一個人として考え、子どもは子ども、自分は自分でやりたいことに目を向けていいのか、子育てを放棄することになりはしないのか、母親として、叱れないままでいいのか、 自問致します。
今しかない、と思う焦りがございます。ですがどうしたらいいのかがわからない、というのが正直なところですが、日々手探りを続けて参りたいと思います。

最後にダジャレに疎く、大笑いとまではなりませんでしたが、少しホッと致しました。ありがとうございました。

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