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金銭に強く執着する人

回答数回答 1
有り難し有り難し 10

金銭に強く執着する人に心を乱され困っています。
お金のために平気で嘘をつき、自己正当化、得をする事に悦びを感じている姿を目の当たりにすると、胸が締め付けられて辛いです。

情が絡む相手なので、どうしても心が乱され、哀しくなってしまうのです。他の人がいくら強欲でも同じ感情になることはありません。

厄介なのは、この情です。関係はそのままに、情だけ断ち切る事はできないものでしょうか。

よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分よりも金の方を大切にされているとあなたが気づけばいい

人間自分に都合よく考えてしまうものです。
その人への情があるというのは、厳密にはあなたはあなたと関わってくれる存在であるから情があるのでしょう。つまり、自分への情ということでしょう。
お金、お金した人は、人よりお金の方が大切です。
あなたよりお金が大切なのでしょう。
だからあなたの意見も聞き入れてくれない所があるといえます。
そういう情は、断ち切られた方が良いと思います。
あなたがあなた自身への甘えを断ち切ればその相手に対する嬢は自然に切れるはずです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下覚元さん
詳細が不足するなか、何をどこまで書くのがいいのか苦慮なさったのではないかと想像します。すみません。
しかしお陰で、忌憚のないご意見が伺えたと思います。(プロフィール欄に補足しておきました。気が向いたらご覧ください。)

自分の事は自分ではよく分からないもので、確かに甘えているのだと思います。
仰るとおり、相手は私よりお金が大切なのです。それが哀しい。
と思う事こそが自分への情、甘えなのでしょうね。断ち切る努力をします。
回答、ありがとうございました。

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