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気持ちの切りかえができません

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有り難し有り難し 15

私は大学生で、ある部活に所属しています。私が思う理想の大学生活はさまざまなことにチャレンジ出来る、といったものでした。

サークルではなく、部活動ですので週に4、5日は活動しています。当初は、勉強も部活もアルバイトも、たまに友達と遊ぶ…等、自分なら全部出来ると思って入部したのですが、周りと比べて技術的に劣っていることや時間的な制約など、悩んでいるうちに部活を辞めたいと考えるようになっていきました。

何度か辞める意思を部員に相談し、伝えました。毎日悩んで、辞めようと決断したのに説得されて引き下がってしまいました(つまり、続けることにしました)。

私は今まで何かを中途半端で辞めたことはほとんどありませんでした。だから今辞めたら絶対後悔すると思いました。今まで自分なりに頑張ってきたことが無駄になると思いました。

でも、他にやってみたいことが出来なくなっているのも事実です。

この2つの思いが消えず、未だにもやもやします。そして、続ける決断をしてしまったがために、また辞める相談をすることもできないと思っています。

自分なりに考えて結論を出したのに、くよくよしてしまう自分が嫌いです。気持ちをぶらさずに一方向に向けるためには、何を心がければ良いのでしょうか?


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

茶におうては茶を喫し 飯におうては飯を喫すべし

これは曹洞宗大本山総持寺のご開山、瑩山紹瑾禅師の遺された、
人間万人の真相を喝破された言葉です。
この言葉の真意は「茶に向かえば茶になる、セミに向かえば即セミ。この心身が総上げでそれになる。そこから離れていつでも救われている」ということを難解な禅語、仏教語を用いずに平易に説かれたのであります。
上の蛍光灯をみてください。この心身が即、蛍光灯になり、微塵もワタクシなし。部活の事も勉強の事も友達の事も何もありません。TVに目を向ければTVのディスプレイあるのみ。ディスプレイの鏡状に映る自分に目を向ければ、ディスプレイを見ながらもわれの姿映るあるのみ。
ただいつでも向っている事になる。
気持ちの切り替えも何もいらない。
五感は全て、気を向けた方に転ずる。
思いは嘘をつく。本質、本当の真相、本真は向かった事に既になっているから、気持ちの切り替えも不要。
現に今あなたは、この一文字一文字を見ている。もう、前の文字はどこにもなかった。
本質、本真は、いま、この向かっていることだけでしょう?その時、全てことをちゃんと終わらせて今歩んでいる所を生きているのです。
たとえば勉強に集中してたがラインが来た。そうなればたちまちにラインに集中しているのがこの心身というものです。(勉強に)集中しなくなったのではないのです。
ラインや今見ているものに全身心を投げ打って、そっちに集中しているのです。
これが万人の大法則ですから、これの通りに、後はモノの方にならってください。
なにに出会っても、私は、そこを生きている。それになっている、という事が分かるはずです。それは事実を生きた姿です。考えの上で、ああ、私はアッチに集中していない、という事から離れて目前の事になりきっているだけなのです。
ラインでも、読み終えたら次のメッセージに目が向くでしょう。
少しも残していない。すこしも二つにわたっていない。

◆あいうえお、「あ」の時は「いうえお」無し。
「お」の時には、「いうえお」は無し。
◆ドレミファソラシド」ファの時には、ドレミなくソラシドなし。
この故に人間はいつでも、そこを生きて一切を了じて今を生きている。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

過去の決断との整合性に捉われない

ぴーちさん

今はもやもやして、くよくよしながら
迷い、考える時期なのだと思います。

“私は今まで何かを中途半端で辞めたことはほとんどありませんでした。だから今辞めたら絶対後悔すると思いました。今まで自分なりに頑張ってきたことが無駄になると思いました。”

一つのことをやり続けること
大事なことだと思います。
そして、続けることで見えなかったことが
見えることもあると思います。

ただ、

“部活を辞めたい”
“他にやってみたいことが出来ない”

本当は続けたくないのに
「続ける」ことにのみ固執して
辞めることが出来ないのも
また弱さだと思います。

やりたいことは結果的に続くのです。

“そして、続ける決断をしてしまったがために、また辞める相談をすることもできないと思っています。”

そんなことはないのです。
過去の決断との整合性に捉われるのではなく
今の自分の本心に問い続けることが
自分を生きるということなのだと思います。

“気持ちをぶらさずに一方向に向けるためには、何を心がければ良いのでしょうか?”
とのことですが
自分に背かないこと、納得することだと思います。
ただ、私は辞めることを勧めているわけではありません。
今の自分に問うことです。
「一体自分はどうしたいのか」と

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おきもち

どっちも同じ価値だから迷っている

迷っているということは、今のあなたにとって、辞めても辞めなくてもどっちでも同じくらいの価値だということ。
だから、どっちでもよいのです。
この場合、二つの方法があります。
一つ目は、どちらでもよいから決めて、決めたら後悔しない。
二つ目は、どちらかの価値を高める。
まず、一つ目の後悔しないためには、「あの決断をした時点では、どちらでも自分にとっては同じ価値だったんだ」と思うこと。
そして、決めたからには決めた方で努力すること。
二つ目の、価値を高めるとは、例えば部活であれば、自分にとっては辞めても続けてもどちらでもよいが、他の部員から望まれているという他人が見た価値が部活にはプラスされていると考えるのもよい。
また、あなたがおっしゃるように、せっかく今まで続けてきたのだからというプレミアムを上乗せするのもよい。
さらには、いずれにせよ決断の期限をまず決めて、辞めるなら何年生の何月までにと設定して、それまでに辞められないなら、辞めるという選択肢の賞味期限が切れてマイナスの価値になる、と考えてもよいでしょう。
最後に、人生の決断は、迷ってもよいのです。暗くならず、明るく迷ってください。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

質問者からのお礼

ありがとうございました。
今まで自分の中だけでもやもやしていましたが、他の考えを知ることが出来ました。
プラスになる決断をしようと思います。

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