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大恥をかいてしまいました

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高校2年の者です。

昨日、学校であるイベントがありました。

その余興を自分が担当していました。内容がある芸人のものまねをしてみんなを笑わせるというものでした。

ですが全校生徒に見られるというプレッシャーに負けてしまい、声もあまり出せなくて中途半端になってしまいました。笑わせるどころかしらけてしまいました。そのおかげで大恥をかいてしまいました。

同じクラスの女子の2~3人からは「かわいそうだねー」「あの人ちょっと変わってるよね」などと言われていたらしく、完全に変な人だと思われてしまったと思います。

もう他人の目が怖くて学校にいける気がしません。どうすれば良いのでしょうか?また、どうすれば周囲の自分の印象を変えていくことができるでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

次の印象を変える

その失敗はその失敗で肯定すればいいのです。
ネタにされた時「(;^<^)緊張して固まった」という事を普通に明かせば隠し事はありません。
結論から申し上げます。悪気はありませんが安心して頂きたいので真実を申し上げます。
「人はアンタのことなんか誰もさほど気にしていない」ということです。
これは私もあなたくらいの時には人の目が気になっていたことがありますが、誰もみんな見ちゃいないのです。
今日は今日で新しいことを目の当たりにしている。
自分が自分の中のカッコいいストーリーを描いていて、実際がそれ通りにならなかったという程度の事です。みんなの主人公はみんなそれぞれなのです。だから、他のみんなあなたと同様「自分のことしか気にしてません。」だから大丈夫です。
たまに思い出されてネタにされることがあるかもしれませんが、あなたも人の失敗などさほど問題にならないでしょう。人が思うというのはその程度でしょう。
その経験はあなたにとってやがて価値になりましょう。
あなたはあなたの持っている「それ」があなたの価値です。
覚えておいてください。
人は自分の中で、あの人からどう思われているだろうかということばかりを考えていたずらに苦しむものですが、いくら考えてもそんなあなたの細部などをこだわる人など誰一人もこれっぽっちもいません。あなたが他の人のことをあまり細かく考えません。あなたがあなたの事しか気にしていない、ということが一つの答えなのです。誰もがみんな自分がどう思われているだろうか、という事ばかりを気にしています。
それは考えるだけ無駄です。
そこに縛られて今日をぎこちなく生きるより、今日は今日で今日の現実ライブを生きましょう。

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おきもち

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今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

回答していただいてありがとうございます。
やはり、周囲の人々はそんな気にしていなくて、結局は自分がどう思うかということなのですね。おかげであまり他人の目が気にならなくなりました。本当にありがとうございました。

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