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友だち関係で

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一年間前は超仲良かった友だちと今一方的に省かれています。思った以上に深刻な問題で、心に暇がなくて、病みそうです。今は夏休みなのですが、学校が始まったらどうしよと思っています。不良になろうかとも思いました。今でも思っています。
その友達とLINEで話し合うんですが、俺が何をしたか聞いても「話にならない、無駄」などと言って話をきいてくれません。今受験生なので、あと一年耐えて高校に逃げようかとも思っています。何をしたらいいと思いますか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人を頼りにせんでもいい強さを持つ

友人同士の情報交換でも行き違いはよくあることですね。
コミュニケーションはメールやラインでは誤解も生まれますから直接対話が一番です。
アナタが問題にしているのは、自分の中の恐れでしょう。
相手がこう思っているのではないか。
こうなったらどうしよう。
失いたくない。
負けたくない。
誤解されたくない。
イメージを壊されたくない。
これらは、皆相手に問題があるばかりではありません。
自分が自分の中の壊れやすい何かを死守しようとしているのでしょう。
もっと堅固なものを持った方がいいと思います。
埼玉だったら一度坐禅会にお越しください。
自分の思いに負けたくないと思いませんか?
いつも自分を苦しめているのは自分の思いの闇でしょう。
それって、ああ、オレの思いじゃん、と分かるまでやってみると一生の力になりますよ。
学生さんは無料です。禅は早く学んだ人ほど立派になっている人が多いです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

取り敢えず「不良は止めておけ」と言っとく。

 こんばんは。人生にはいろんな道がありますが、今ちょうど問題にぶつかったのであれば、取り組まなきゃいけませんね。坊さん達が付き合います。
 まず確かめたいのは「不良になる」は「学校へ行かない」ということですね。まぁ、その先で何か学んだり気づくことはあるかも知れませんが、勧めません。学校の人間関係で壁にぶつかっている子が、そっちの世界で上手く渡っていけるとは思えないのでね。
 常々思うのだけれど、学校で学ぶことの中で、成績表につかない・入試で出題されない、ケド社会ではもの凄く重視される「科目」がある。そう、「人間関係を作る力」、これのミッションが発生しているんだね。これは、他の教科よりも難しいよ。数学のような、客観的な=「誰が書いても同じ答えになる」正解がないんだからね。試験というより論文や本を書くようなものだ、と思っている。評価は相手次第。
 難しいけれど、また有り難い面もある。正解がないんだから、いつまで経っても途中経過。○がついて100点!ということもないけれど、完全な×にもならない。常に「今とりあえず、こんな状態」でしかない。
 つまずいた時は、まず実力の把握。コミュニケーションの得意・不得意は?話の持ちネタは?喋る方か聞く方か?いつから関係が変わったか思い出せる?相手の環境に何か変化があった?
 特に、あなたの「失敗パターン」を自覚していることは大切。自分で分からないなら、家族に聞いてみるのが一番。聞きにくいでしょう怖いでしょう?けれど、知らない単語を聞くつもりで「俺の駄目なトコって、どこかな?」と尋ねてみる。
で!何を言われても返事は「ふーん」とダケ言う!(←これを宣言しておくとよい)
思わず反論したら、「俺って短気!」と自分を責め、
「俺の駄目ポイントは、短気」と分かる仕掛けです。
もしも、きちっと家族の指摘を受け止められたら、それが「俺が彼にやっちまったこと」のヒントになると思います(あるいはあなたのせいではないことが分かります)。

これは、「他人の様子を手掛かりに、自分を知る」という作業です。それを知っていると、楽に生きられるようになります。面倒事に対して「何でだ!」と無駄に怒るよりも「また、やっちまった!」と理解できるからです。

どうですか?
受験勉強の方が簡単かも知れませんよ。ケド価値のある学びです。人間関係は。

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有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ