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殺生は悪いこと?

回答数回答 3
有り難し有り難し 38

はじめに、全く仏教の知識がないのでとんちんかんなことを質問してしまうかもしれません…

私は猟師になりたいと思っており、今夏狩猟免許を取得する予定です。
そこで狩猟の見学をしたり猟師の方にお話を伺ったりしています。
ほとんどの場合猟師の方々は、頂いた命は大切に食べ、無駄にしないようにします。

しかし全部が全部そうではなく、農作物を荒らす動物(猿やタヌキ、カラスなど)を駆除する際は食べない動物を殺すこともあります。

スーパーに行けばたくさんのお肉が並んでいて、その全てが人に食べられるわけではなく廃棄されるお肉もありますよね。
それなのに、野生に生きるものの命を奪って食べるということはエゴなのかな…と最近悩んでいます。

猟師は本当に尊い職業だと私は思っています。
しかし命を奪うことへの罪悪感が全くないわけではありません。
仏教の観点から見るとやはりこのような殺生は罪なのでしょうか?


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

動物の魅力を伝えられる猟師さんになって頂きたいです

狩猟免許ですか。ご立派なことです。私は田舎のお寺にいますが、地元の農家の方々は切実に困っています。ぜひウチのあたりにIターンしていただきたいくらいです(笑)

仏教と狩猟…実はとてもデリケートな問題です。僧侶は安易に仏教を結びつけてしまうと、職業差別のような重大な人権問題を助長してしまう自覚を最低限の教養として学ばねばなりません。

…と、お坊さん向けに釘を刺しておきまして、さて、本題です。
殺生とは不害の教えです。不害とは敵意や害意を手放すことです。だから結果論として死なせたかどうかという話ではありません。むしろネットで「社会的に抹殺してやろう!」と身元を特定し、追い詰めることも殺生です。

ぶっちゃけですね、生命のやり取りという点に関して、完全に不殺で生きるということはあり得ません。
南方の上座部仏教のお坊さんは(やはり完全にではありませんが)殺生をしなくても修行を継続できます。なぜか?必要であればお檀家さんが代わりにやるからです。と殺業ではイスラム教徒や他宗教の人を雇う場合もあります。『自分が殺生に関わるかどうか』という形をとっているだけで、完全不殺の社会を作っているわけではありません。
どうしても殺生を離れる事ができないということはお坊さんが一番分かっていますし、戒への理解としても社会を見る目としても、分かるようにならねばならない事です。お釈迦さまは「生苦」、『生きることは思い通りにならないことの連続だ』とおっしゃったのですが、きっとこのことを(も)指しておっしゃったのだろうと私は受け取っています。

そしてやはり生態系に関しても思慮深くあらねばなりません。蚊を叩けば殺生になる…じゃあみんな一斉に止めましょう…するとどうなるでしょうか?蚊が大量発生します。蚊は病気を媒体します。あるいは蚊『も』食べる生物の大量発生にも繋がるでしょう。生態系を壊した先にあるのはさらに巨大な間接的殺生です。残念ながら単純な問題ではありません。

あっちを取ればこっちが付かない中で、誰かがやらねばならぬ尊い仕事というものが有ると私は考えています。
ただ、このことだけは忘れないで下さい。『殺すべき時であっても、慈悲の心を持って行いましょう』。
こちらの私の回答も是非ご覧下さい。
http://hasunoha.jp/questions/1489

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曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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悪いことは誰が決めるのでしょうか?

初めまして。本多清寛と申します。

またぎの方のドキュメンタリーを拝見したことがありますが、非常に感動いたしました。自然と共に生きるというより、自然と一つに成って生ききるという姿勢が、仏教の生き方のような気がして、大変な感銘を受けたことを覚えております。

さて、今回のせつなさんのお悩みは「悪いことをせずに生きていくにはどうしたらよいか?」ということではないでしょうか。今回の質問は、仏教的に猟師の殺生は罪なのか?という問いかけですが、そもそもその問いが生まれたのは、猟師をきちんと良いものとして扱いたいという気持ちがあったからでしょう。そして、殺生は悪だという情報を得て、自分がやりたい猟師というものが良いのか悪いのかに悩まれたのではないかと思います。

殺生が禁じられているのには、多くの理由がありますが、一つは「誰かに危害を加える人間とは共存できないから」というものがあります。例えば、農作物を荒らす動物ならば殺しても良さそうに思えます。しかし、これが増長していけば、農作物を荒らす者は何でも殺すようになるでしょう。歴史上、領地を巡った闘いは枚挙に暇がありません。だからこそ、殺生が禁じられています。せつなさんが仰るように、野生に生きる命を奪うのであれば、それは人間のエゴだと思います。

しかし、殺生してはならないという教えの根本的な意味は「害さない」です。だからこそ、人間と動物の共存を図るための行いであれば問題ありません。野生の命を食べることで、自分の命を繋ぐこと、それは命が形を変えて繋がっていくことです。兎や猪の形だった命が、せつなさんの形をした命に変わるのであれば、それは命を奪ったことにはなりません。

これはある意味、屁理屈のような言い方です。むしろ、言葉だけならば屁理屈と同じものでしょう。だからこそ、行動で語る必要があります。猟師という職業を尊いものとするのも、賤しいものとするのも、これからのせつなさんの行い次第です。他人からは「命を奪う」ように見えても、せつなさんの心が「命を生かす」ことを願っていれば、かならず行動が変わっていきます。

悪いことは世間が決めますが、せつなさんもその世間の一員です。世間が納得するくらいの猟師になれば何の問題もありません。それに必要なのは、大慈和尚が仰る「慈悲の心」です。どうか、生かす猟師を目指して頑張って下さいね!

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本多清寛
本多清寛と申します。 答えではなく、応えを出して行きたいと思っております...
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命を奪う仕事は誰もやりたくないのです。
殺生により悟りが遠のくからです。
苦しみが生まれるからです。
しかし、場合によって誰かがやらなくてはならない時があります。
猟師もそのひとつです。
あなた1人単独で生き物を殺すのではありません。
私たち人間みんなが生きる為に生き物を殺すのです。あなたはそれを私たち人間を代表して実行しているだけなのです。
あなた1人の罪では無く、私たち人間全ての罪なのです。
そのように考えて少し気持ちを楽にしてください。

また、罪悪感は正しい感覚です。しかし、罪を罪と知り懺悔すればその罪は滅する、とお釈迦様は言われました。
どうか、罪悪感を保ち、殺生を必要最小限にして、時々懺悔して、殺生した生き物を供養してくださいね。
私もあなたと共に日々懺悔いたします。

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私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
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質問者からのお礼

皆様回答いただきありがとうございます
「殺生」という言葉についての考え方がよりいっそう深まったように思います。

世間では猟師について、鹿がかわいそう…などの批判がたくさんある中で理解ある回答をいただき嬉しかったです。

鹿が実際に殺されて解体される場面も見ました。
かわいそうというならたしかにそうかもしれないけれど、
自分達が生きていくために命を頂くというのはこういうことなんだな…と考えるようになりました。

ただ何も考えず動物のお肉を食べていたころよりも、命についての考えは深くなっていると思います。
この考えを忘れないように、自分のおかしている罪を受け止めながら、自然や命と向き合っていきたいと思っています。

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