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他人からの影響

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有り難し有り難し 8

他人の影響を受けすぎてしんどいです。どうしたらもっと自分の事を優先的に考え、行動できるようになるのでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分を生きる他なし

東京大学で悟りを開いた井上義衍老師の脳波の実験をした時のこと。
実験中、ドン!と大きな音を立てました。
老師の脳はその音のみに反応して、その後は乱れが無かったと言います。
他の被験者は、ドン!と刺激を与えた後も乱れっぱなしであったと言います。
また別の実験で、坐禅中の禅僧の脳波を測定した時の話単調なリズムをずっと繰り返しで流しましたところ、禅僧は毎回毎回、新鮮に出会っていて、他の一般の方は、単調なリズムに飽きて、関心が無くなっていったというデータもありました。
これをヒントにしてみてください。
他人に影響を受けたと言ってもソレも自分です。
ドレミファソラシド、きけばソレになる。ソレも自分です。いつでもライドオンしています。
この文字をみればこれになる。これに転ぜられてゆく。いつでもライドオンです。
誰もが、向かっている事に転ぜられていく。それは立派な働きなのです。
ただし、あなたのいう所の影響をされるというのは、人に左右される、心が振り回される、という事でしょう。
あなたの問題は、自分を注ぎ過ぎなのかもしれません。
たとえば私の横では子供が大暴れをしたり、ワイフが怒ったりしています。
そこに私が首を突っ込み過ぎる、自分を注ぎ過ぎるとどうなるでしょう。
子供はダブルで怒られることになったり、ワイフも余分な首を突っ込んでくれるな、という事にもなりかねないことだってあります。
だから私は、それをそのままに、レリゴーしています(笑)。LET IT BEしています。THIS IS ITのままです。 
あなたが親や、職場の人や、他者に影響されないためには、心が不動であることです。
お不動さんを念じるもよし、坐禅で本当の不動産を得るもよし、カラオケで流れている曲を無視して全然違う曲を歌うもよし(笑)
まずは受け止めて。
そこから自分の意見をちゃんと言えるようになりましょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

すんなり受け入れる

私たちの生活は、周りに影響されて成立しているように思います。
影響されていないことは、ないでしょう。しかし、一つ一つの出来事に自分で価値判断をつけているから、
納得できずに、苦しむのでしょう。
ある意味自分の我をしっかり出しているからその我に一致しないことで、苦しむのだと思います。

よく言う、「ありのままをそのまんまに受け入れる」ということができれば、影響されていても、それにたいして不満が生まれることがありません。

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おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

質問者からのお礼

有り難いお言葉、ありがとうございました。やはりこれには訓練が必要なのですね。

どこかで、不動になることで孤独や融通の利かなさに困るのではという、自分の中の甘えが生じている部分があるのだと思います。

お話にもあった坐禅、前から気になっていたのですが、そういう修行なのですね。機会を作って是非参加してみます。

ありがとうございました。
参考にさせていただきます。

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