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得度について

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有り難し有り難し 31

 はじめまして。
 私は、近い将来 大谷派で得度したいという目標を持っています。

 在家であり、妻帯者であるため、お寺に入ることは無理でしょうか
ら、どこかの寺院にお世話になりながら、活動できたら、という思
いでいます。

 しかしながら、地元を離れ、縁も ゆかりもない土地に住む私にとっては、頼るお寺が見つかりません。

 近くのお寺の報恩講や法話会に参加しても、なかなか、深い話ができないまま、一年近く過ぎています。

 そもそも、ご住職のお力添えなくして、得度が出来ないことはわかりますが、弟子をとって得度するようなことを親族以外の人にも行ってくれるのでしょうか。

 また、その場合、一般的に謝金等は礼儀として必要なのでしょうか。師匠と弟子の関係というものが、一般家庭で育ち、サラリーマンとして働く私にとっては、なかなか想像がつきません。

 ついつい、逆の立場で考えてしまうと、一般の人の面倒を見て、得度させたところで、メリットがあるのだろうか・・・など考えると、なかなか深い話が出来ません。

何かしらアドバイス頂けたら幸いです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

飛び込んでみてください

はじめまして、私は真宗大谷派の僧侶です。

大谷派の現在のシステムとして、僧侶となるにはどこかの寺院に所属しなければいけません。寺院に所属するとはその寺院に僧籍(僧侶としての戸籍)を置くこととなります。当然その寺院の代表役員たる住職には監督責任が生じます。

したがってどのお寺に所属する場合でも得度を希望されるご事情をよくお聞きすることとなるでしょう。

大谷派の僧侶とは

僧侶は、専ら仏祖に奉仕し、宗義を研修し、教法を宣布するを本分とする。(僧侶条例第一条)

と規定されますので、例えば「特定の誰かの菩提を弔いたい」という理由であれば、「それは得度しなくてもできます」となるでしょう。
また、近年は得度された後行方知らずとなってしまい、本人は取得した僧籍を武器に葬儀屋さんと結託して生業とする…というような収入源としての僧籍取得を目指すケースもありますので、やはりよくご事情をお伺いすることとなります。

ねね様の思いが得度しなければ達成できないものなのか、門徒(信徒)の一人として聞法求道していく道ではダメなのか…お話しの末、ねね様の思いが伝わり僧籍取得の必要性が認められるとともに、得度後の活動方針について理解が得られるのならば、所属をさせてくれる寺院もあることでしょう。

寺院出身でなくとも僧侶として活動されている方はたくさんおられます。また近年は後継者問題に悩む寺院も多いので、フリーで活動するのでなくご縁があれば住職として寺院で活動したいという意志もあるのであれば、妻帯者の方の入寺を歓迎する寺院もあることでしょう。

まずは「得度したいと思っているのですが」とお電話でご連絡ををして実際に話しを聞いてもらう事です。そこからご縁がつながっていくかもしれません。
また、大谷派では各教区(宗派の行政区画)に教務所という事務所がありますので、そこで得度を認めてくれるような寺院はないか情報を求める事も一つの手です。
(ねね様のお住まいでは東京教務所が管轄となります。しかし個別のケースにどこまで対応してくれるかはわからないのでこちらに期待するより寺院に飛び込んだ方がよいかもしれません)

なお、僧侶には所属寺院を通じて義務金が賦課されることもご承知おきを。
(本山からは年間で僧侶なら4,500円、教師なら12,000円)

よきご縁がありますことを念じます。

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おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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参考になさってください

得度を受けたいと言うお気持ちを持っておられるということは、何かしらのご事情があってのことかとお察し致します。かく言う私も、元々は在家出身でしたので。

真言宗僧侶である私のお答えが、参考となるか分かりませんが、参考になればお役立てください。

まず得度を受けるだけでは僧侶としての活動を行うことは極めて難しいでしょう。得度を受け、度牒という僧籍を得て、そこから修行し、教師資格を得て初めて僧侶として活動できものだとお考えなさったほうがよろしいかと思います。

もちろん親族以外でも弟子は取ります。
本当にお心が硬いのであれば、お住いの近くで師僧が見つからなければ、遠方でもお探しになるべきでしょう。たとえば、このWEBサイトで回答をなさっている真宗大谷派の教師(僧侶)の方に電話などでご相談されるべきでしょう。まずは会ってもらえる僧侶が現れるまで粘り強くがんばってください。

僧侶として得度、つまり出家されるということは、何もかも捨てて、仏道に入る事が本来ですので、ご自身にふさわしいお師僧様が見つかり弟子入りを許してくださったら、喜捨されるべきと考えます。

僧侶たるもの本来、お釈迦様から綿々と続く教えを、次の世代に託していく義務がありますので、弟子としてふさわしいと思えば、メリット・デメリットなどは考えずに受け入れるものだと思います。

良いお師僧とめぐり合われることをお祈りしております。

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おきもち

武本法修
山寺の住職をしている真言宗善通寺派僧侶です。貧乏なので兼業で行政書士をして...
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質問者からのお礼

ありがとうございました。
熱意が人を動かすことを改めてかんがえました。
仏教が、今の現在に至るまで連綿と続いたことを鑑みると、仰るとおりでありますね。
道がぶれずに頑張りたいと思います。

ありがとうございました。
自分自身の支えとして取り組んでいきたい道です。
その中で、自分自身が抱えてきた苦悩を感じて生きている人の何かしらの支えに
なればという思いで歩んでいきたいと考えています。
私自身を含め、世の中には病んでいる方がたくさんいらっしゃると思います。
熱意をもって諦めずに取り組んでいこうと思います。

「出家・得度・僧侶になりたい」問答一覧

得度に関して

私は、海外在住50代の女です。真言宗にて得度をうけたいと考えています。尼僧になるのが、目標ではなく これから仏道の道を歩み、学んで行きたいという決意です。自分でできる限り調べておりますが、女の得度については情報がなかなか見つからずにいます。師となって頂きたい方がおります。お遍路の大雨の中避難先ののご住職です。もし受け入れていただけるのであれば、年に一ヶ月くらい 住み込みで勉強させていいただきいと思っています。お手紙にて思いの丈をお伝えしたと思っているのですが、このように突然見ず知らずの一度お会いしただけの私のようなものが、このようなお願いを送って失礼はないのだろうかと一歩踏み出せずにおります。私の住む街の寺院名を仮にAとBとさせていただきます。 寺院Aには、ご住職にお願いしまして、お掃除をさせていただいております 週末外庭とお掃除、その後依頼されて納骨堂(期間限定)のお磨きをさせていただいており、2年が経過しています 特に感謝の言葉をお声がけいただくこともなく、自分自身の修行であり感謝の言葉を期待すべきでないと言い聞かせています。一度、ご住職に仏道に進みたいと相談したものの、写経に参加しなさいという回答のみでした。 寺院Bの先生は、私が得度を受けたいと思っている師の元で、修行をされています。それがわかったのは、その寺院にて避難させていただいていた同じ時に、いらっしゃいました。 この先生は、少しずつですがこの寺院にて学んで行ってはいかがでしょうと行ってくださいました。実際、専修学校にいくお金を今工面できないために、日本に行けない間は、こちらで学ばせていただこうと思っています ただ私は、どちらの檀家でもありません。同宗派とはいえ自分の寺院を一つにするべきとと思うのですが、いかがでしょうか?寺院AもBもご住職は、日本語でないため、日本本語の話す師のもとで得度し、前進していきたいと思います。 師を日本にもち、寺院Bの先生に学び 寺院Aにてお磨きさせていただいたいと思うのは、欲張りなのでしょうか?また、現実的な金銭的なお話ですが、得度をお願いする際に、どれくらい用意しておくべきかアドバイスいただけますでしょうか?、またその師には、毎月、または毎年お礼として上納するのでしょうか? まとまりのない文章で失礼いたします。 ご意見をお聞かせいたけましたら幸いです。ありがとうございます

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女性の在家の出家を認めてくれますか?

禅の独自の方法で集中的に在家修行をして、3年以上になります。6年前に大学院在籍中に、気づきの瞑想の型を習得し、研究で理論を創造し、理論を実践の内容とし、禅の独自の方法として理論を修行に応用化させました。 今の境地を顕すなら、宇宙の理を見ることができるようになりました。私がどういう仕組みで、どういう自然の流れで生かされているのか、理解できるようになったのです。この真理の構造を知る事によって、他者や物理的法則がどういう意識、又は秩序の構造か、知る事も可能になりました。 今、困っているのが、食欲が減退し、ご飯は無理矢理食べています(死にたくないからです。)、睡眠欲が完全に無くなり(今、書いている時間帯まで眠れません)、性欲も気持ち悪くなってから、追求しなくなりました。他者に配慮したり、他者のペースに迎合すると、忽ちに気力が無くなってしまいます。この時、呼吸も乱れて、身体に力が入らなくなり、動けなくなります。今は、生きるのに思うようには行きません。 出家したら、自分の主体が乱れるのも危惧していますが、このまま一人で暮らせば、誰も加護してくれない場合、私は生きていけるのか、漠然としたシコリがあります。出家の本来の意義は、生きるか死ぬかの狭間で、世に殺されない為、即ち、世との軋轢で自殺しない為にあると、ささきしずか先生の本で見たことがあります。私は、日本社会の隅っこで、唸り続けながら、死ぬしかないのでしょうか。出家するしかないのではないか、といつも思っていますが、何故か今は、念仏して拝みたい欲に駆られて、仏様の側に居たい気持ちでいっぱいです。誰か、助けてください。

有り難し有り難し 30
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出家の覚悟について

私は、国家公務員として38年間勤めあげた定年退職者です。公務員生活の後半はボランティアでライフセーバーも経験しました。 もともと人のために役に立ちたいという気持ちを強く持っていましたが、こだわりの強い性格のためか、自分自身を省みることなく頑張りすぎることが何度もあり、そのたびに精神的に落ち込んでしまい、公務の現役時代にはうつで2度休職しました。 定年退職後に、子どもたちの夢や希望に寄り添いたいという思いから、教育支援業を立ち上げましたが、私の経営能力のなさから半年で廃業いたしました。 今回の教育支援業の失敗で、情けない思いでいっぱいでどこかに逃げてしまいたいと思いましたが、会社を整理するまでは頑張ろうと思っています。 公務は防災に関する職種で、ライフセーバーも人命救助の最前線でありました。しかし、防災でもライフセービングでも、どうしても救えない命があるという事に悩んでしまっていました。 第2の人生を教育支援業に賭けようと頑張りましたが、その失敗でも苦しんでいます。 いまは、「私は誰も助けることができない」という思いで、死んでしまいたくなることもあります。 いつかは出家したいと思っていた時期もあって、会社の整理が終わったら、臨済宗妙心寺派の「第二の人生プロジェクト」で出家したいと考えております。 もともと、宗教や精神世界、心理学や哲学に惹かれるものがあって、中学の頃から独学で座禅や瞑想をすることもありました。 仏教は書籍で薄く独学した程度ですが、ネットでテーラワーダ仏教を学んだりしています。 こんな妄想や煩悩でいっぱいの精神的に弱い私なので、自分自身61才での出家の覚悟があるのかどうかさえしっかりしていないように思います。 そんな私でも、人の悩み苦しみに寄り添いたいという思いを強く持っています。その思いだけで出家する事について、なにかしらアドバイスをいただければと思います。 忌憚ないご意見をいただければ幸いです。

有り難し有り難し 11
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得度の意味を考えてみました

前回ご回答くださった僧侶様、ありがとうございました。 あれから自分の生き方を見つめ直してみて、浅はかな考えで得度したいと思ったこと、お寺に入れば何とかなるという甘えた心、得度しても自分がちゃんとしてないと何も変わらないということを知りました。 前回お話ししたKというお山の尼さんにお願いしたところメールアドレスの交換をしてくださり、時々相談をするようになりました。 尼さんは得度はしたものの住職資格はないので、迷ったときは、菩提寺のあじゃりさん?に習ってくださいとのことでした。 私は古い頭の持ち主で、年下の方にうまく頼ることができません。どうしても年上として、若い人に教えないと!という傲慢な気持ちが捨てられません。 尼さんは若手の方を育てるために、自ら練習台になればよいと言ってました。自分の身を低く保ち、私相手ならいくら失敗してもいいからと、いつか自分がご住職となる日のために私を利用したらよいのだ言ってました。 彼女のような、慈悲深く、優しく育てる気持ちを持つにはどうすればよいでしょうか? 私は、若い人から口答えされると生意気だなぁと思ってしまいます。でもその尼さんは、今の時代受け身の若手が多い中、そうして年上にぶつかってこられる人こそ大切だと言ってます。 私も頭ではわかるのですが、実践は難しいです…

有り難し有り難し 16
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発起心について

私は34歳で会社員として働いているものです。 出家する事についての質問です。 私は今まで人より良くありたい、という虚栄心で人に対する劣等感で生きてきました。そのため親しい人やパートナーなどはおらず、なぜ生きているのかよくわからない空虚な状態が続いています。 一時的な慰みとして飲酒、暴食などをして気を紛らわしますが虚しさを感じうつうつとして気持ちになっています。 仕事も順調とは言えず、自分の居場所が無いと感じ、この職場を去りたいと常に考えています。でもそれは逃げているのではないか?という葛藤があります 職場の方は良い人ばかりなのですが、私自身の問題で態度に出てしまうため自分に対して罪悪感があり、それが元気が出ない原因にもなっていると思います。 (いい歳してお恥ずかしい限りなのですが・・・) 気力がわかない状態が辛く、自分なりに考えたのが出家です。環境を変えて厳しい環境に飛び込めば自分を変えられるのではないかと一縷の希望をいだいています。 20代前半のころから生きづらさを感じ、強い興味を持ち仏教書などをよく読んでいました。(ブッダ、道元禅師、親鸞上人の著書)出家願望はあり、親などにも話しましたが反対にあい今まで生活をしてきました。しかし年齢を重ねて自分が人生をかけて学びたいものは仏教だという確信めいたものを感じていて、生き方として僧侶の姿勢を学びたいという気持ちがあります。 老いた時、病気の時、死ぬ時苦しみが襲ってきたときに苦しみを和らげてくれるのは仏教ではないかと考えています。また自分が辛さを感じて生きてきたため克服、寛解できたときに苦しむ誰かの力になれるのではとも感じています。 もちろん出家したからといって完全に救われるわけではないと思いますし、修行の厳しさや職業としての僧侶を成り立たせることの難しさも考えないわけではありません。このまま社会人として生活し、仏教を学びながら日常を修行として生活していく道もあることは頭ではわかっています。 しかし自分の中では、一度きりの人生、年を重ねて後悔して死ぬよりも、昔からやりたいと思っていたことをやるべきなのではないかと考えています。 皆様にとって、私が出家をしようとしているきっかけについてどう思われますでしょうか。 これは逃げでしょうか。発起心でしょうか。 ご回答いただけますとありがたく存じます。

有り難し有り難し 8
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ