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許してくれないです

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有り難し有り難し 37

私にも非があります

相手にも非があります

友達は関係をよく知っています

私は謝っても許してはもらえませんでした

私の友達は何も悪いことをしていないし相手がそこまであなたを傷つけることはあなたはしていないといってくれました

非があると思い謝り続けても許してはくれないです

相手を傷つけるようなことはなにもしていないのに相手は許してはくれません

相手は終わったことだから忘れろと言ったのですが終わらせてはくれないです

相手が自分から約束しても結局その場しのぎで嘘の約束をします

影でこそこそと関係のない人まで巻き込んで私を否定してどんどん相手は関係のない人にまで私が悪いと言い

相手は私が傷つき笑わなくなり元気がないのが嫌と言いながら傷つけてきます

人の負の感情 心が見えて辛いです

必死になって頑張っても許してはくれないです

そこまで必死になる私を見て友達はお前が悪いことをしていないのに必死になってやっているのに相手がさらにお前を傷つけるのは相手がおかしいだって終わったことといっているなら尚更

おまえは優しすぎるこれ以上お前の苦しんでいる姿を見たくないから離れろ言われました

あまりにも悲しくて死のうと思ったこともありました

相手の周りの人間は関係ないのにどんどん私に対して冷たくなっていくのが言われなくてもわかります

相手の心が見えたり相手の言葉の奥の心が見えたときに相手が裏に行ってこそこそやっているときは頭が真っ白になりなりました

嘘ついているのもわかりました

人間て本当に冷たいなと感じる毎日です

都合よく使われているのもわかっています

好きなことをしろと言ってくれたのにそれをやったら今度は裏でそれを否定してきました

本音をぶつければ私に背を向き

私は友達の言うとおりこのままだと相手の前から消えそうです

私は人として当たり前のことをしたのです

相手の心を感じ取って悲しむのに限界です

優しすぎる心なんてなくした方がいいですか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

許されようと思うのは自分の押しつけ 現実と理想は別

相手がどうしたこうしたという条件付けが邪魔になっています。
自分がした悪いと思ったことに対して純粋に相手がどうであれ詫びるべきを詫びる。
「一度謝ったからイイじゃねぇか」
「オマエだって非があるだろ」というのは詫びではないのです。
自分は自分のしでかしたことに純粋に詫びる。
そして、自身の精神の向上を持つ。
仏教では懺悔、菩提心という言葉があります。
勉強してみてください。
あなたが救われない、晴れやかにならない、気に入らないのはそこに根強い「自分」がいるんじゃないでしょうか。 
詫びるべきを本心から詫びる。
その後、それでも相手が何も無ければそれは相手に問題があるのです。
あなたが変えることはできませんから、変えようとすれば苦しい。
つぼみはつぼみのまま。
つぼみが真実。
花や実を期待しなくてよいのです。
それが今の真実なのです。
カブトで言うと成虫でなくてもそれが大事な時期なのですよ。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

あなたの人生誰のもの?

「どんな音にも驚かないライオンのように
網に捕らえられることのない風のように
水で濡れることのない蓮のように
犀の角の如く、ただ独り歩め」
(経集)

あなたの人生は「相手」のもの?
「友達」のもの?

あなたの人生はあなたのものでしょ。
どうにもならないものはどうにもならないんだ。
どうにもならないことを、どうにかしようと執着するから苦しいんだ。
おろおろと右往左往していても、結局は何も解決しないじゃないか。

「もう知らない!」と全部放りだしてしまえばいいんじゃない?
あとは流れに任せてしまいなさい。
人の言葉に左右されずに、自分の人生をしっかり生きなさい。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
様々なつらい別れや痛みを、私も経験しながら今日を生きています。 あなたの苦しさや痛みを共に分かち合い、少しでも和らげることができれば幸いです。
自分自身も重度の知的障害児を育てながら家事と仕事で忙しくしています。 外に出ていることも多いので、なかなか時間がとれないかもしれませんが、なるべく時間が許す限りお話を聞きます。

質問者からのお礼

ありがとうございました

私は弱いのかなと思います

自分自身を大切にしないといけない時期な気がします

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