hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

高校生の息子ってこんなものなのでしょうか?

回答数回答 1
有り難し有り難し 15

高校生になって、少し気になるところがあります。

1学期にたばこで停学、私には何を言ってもくってかかる、バイトはやめてくる。最近、私に対する態度がましになり、普通にしゃべるようになったので、少し安心していたのですが、この間私に嘘をついて習い事を休んでいるのがわかりました。

小学生のころからダンスを習っています。高校生になってからは、日・月に行ってます。

どうして休んだのか聞くと、「友達ともめていて、話し合いをするため」とのこと。
2、3回やすんだらしいのですが、私に今日は休むと言って行かないこともしばしばあるので、「ダンス、やめたいん?」と聞いたのですが、「やめたくはないねんけど、月曜はしんどいねん」といいます。「日曜もときどき休むやろ?」というと、「それは、本当にしんどい時やん」という答えです。

「正直言って、やめたいんじゃない?あんたのやりたいことやから、やめたかったらいいねんで」ともう一度きいたのですが、「だから、やめたいわけちゃうねん」といいます。
しばらく、様子を見ていたほうがいいのでしょうか?
やはりこの時期は、友達が最優先なのでしょうか?

ちなみに、上の息子は独立しており、私と高校生の息子の二人暮らしです


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

学校の勉強でない勉強が始まっている

〇お金もかかるでしょうから、本人に責任や金銭感覚を養わせるためにも、二か月サボったら一度退塾じゃと、お金は出さないと、こんこんさんだけにこんこんとさとしてください。
その時に自分の言い方、伝え方が、その子の年齢と状況に適した在りかたかどうかを見極めてください。
息子さんはお母さんから嫌われない様に、もしくはお母さんを不機嫌にさせるとめんどいから、そういう理由にしているだかもしれまへん。
小さなウソは多めに見て、本心はこの子は何を求めているかを見抜くようにしましょう。
学校は生徒さんにとっては戦場ですから、友人関係は大事でしょうけど、一生の友達でなければそんなに無理して付き合わなくてイイことをあなたのご経験から話してあげることがいい勉強になるでしょう。
要は今困っていることがある。
そこをクリアーできるようにさせてあげれば親の役目は十分なのです。
どんどん、子供にとって、いいこと、役に立つことをいうことです。
子供にとって高校生活~社会で役に立つ人間関係、世渡りのスキルを教えてあげるべきです。
子供は親から教わりたくない時期がありますから、その場では反抗しますが、ちゃんと脳では❝効いています❞から大丈夫です。
一方的な働きかけにしか感じなくて手応えを感じないと思いますが、それでもいつかちゃんと役に立つ時が来るものです。
タバコや薬物はやらないにこしたことはありませんが、やるにしても許可するから自分たちの前でやらせるようにすることです。そういう親の度量を見せることです。
その時に会話の場を作るようにするのです。
そろそろ親子、というより立場を捨てた対話に切り替えましょう。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

そうですね。
話すとくってかかってくるので、向き合うことをさけていたように思います。親であるを全面に出すのではなく、対話できるように頑張ってみます。ありがとうございました。

煩悩スッキリコラムまとめ