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新興宗教で言われた浄土真宗の悪口について

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家族に新興宗教の集会に連れて行かれ、幹部に浄土真宗の信仰をしようとしているという旨を話され、幹部に浄土真宗などという最低な教えをやる必要はない。枝葉の教えである浄土三部経などではあなたは救われない。と言われてしまいました。
挙句の果てにはお釈迦様などより新興宗教の教祖に従っていればいいなどと言い出す始末です。これは仏教ではありませんよね?そんなことを言われ私は何も言い返すことができませんでした。
私は親鸞聖人の現世利益和讃などを読んでも分かるように浄土真宗にも現世利益はあると思っていますが、間違っていますでしょうか?
また、浄土三部経でもお釈迦様が説かれたのですからちゃんと仏にならさせていただけると思うのですが間違っていますでしょうか?
また、今度集会に連れて行かれた場合、どのように言い返せばいいと思いますか?本来仏教徒であればこういった言い争いがなるべくしないほうがいいと思うのですが、浄土真宗のことを侮辱されたようで悔しいのです。どうぞお知恵をお貸しください。

2017年6月13日 20:04

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

無碍の一道

侮辱されて悔しい気持ちはさぞ辛かったであろうとお察しします。信仰というものは個人にとって非常に大事なものでそれを否定されるのは悲しいですね。

しかし、おっしゃる通り信仰というものは議論して相手と戦い勝つためにあるのではありません。
あなた一人が浄土真宗で本当に救われるのかという事が大切でしょう。あなた一人が救われるのならそこから皆の救いが開けるのです。

私はこれについて詳しくありませんが、浄土三部経が仏説かどうかは今となっては確かめようがないかもしれません。でもそれを言われるとあらゆる教えがそのようにも言えるわけです。

しかし、お経のはじめに「如是我聞」~「このように私は聞きました」とあるように、「私は仏からこう聞きました」と頷いてきた伝統が仏説を証明するのです。あなたが浄土三部経を仏説といただくところに歴史が証明され、その歴史にあなたも参画するのです。

浄土三部経を通じて仏に遇う、そして私も仏に成ることが定まる、それが親鸞聖人の説くところの「現生正定聚」です。真宗の現世利益はここに極まります。現生の今において「往生浄土」が定まるということです。

「往生浄土」とは何か、現世利益和讃に説かれる内容はどういうことか、それを問う歩み、問われる歩みをいただくのです。

現世利益が、病気が治る、お金持ちになる、天災にあわないなどというものなら大したことはありません。
どうせみんな死にます。死なない教えはないのです。

しかし「往生浄土」が定まるとは生死の迷いを超えるということです。死なないわけではありません。死が怖くなることでもありません。「死ぬのが怖いと死んで往けるの両立」なんて言葉もあるように、死の問題が解決するのです。

同じように考えるならば和讃にある「七難消滅」とか「よるひるつねにまもりつつ」ということがどういうことを言っているのか方向性が見えてくると思います。

現実に悪い事がなくなって良い事ばかりあるのが宗祖の言う現世利益ではないでしょう。善悪感からの解放なのです。物事を良い悪いで分別してしまう目がなくなるわけでもありません。「悪いと思っている私」が明らかになり、善悪にとらわれず生きていける歩みをいただくのです。それが何ものにもさえぎられない無碍の一道です。

それぞれの信仰を大切にしましょう。

宗教…少なくとも仏教は他ではなく私を問う教えです。

2017年6月13日 21:42
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有り難し
おきもち

はじめまして。 北海道の道南地区にある若松という農村のお寺に所属しており...

安心してください(^_^)

ヘイズ様

はじめまして、釋 慧心と申します。
拝見させて頂きました。

浄土真宗などという最低な、、
これを聞いて、怒りだす浄土真宗の僧侶は、恐らくですが、いないんじゃないかなと思います。
当たらずともなんとやら、と言いましたら、先生方にお叱りを受けるかも知れませんが。
正直なところ、このみ教えが良いのか悪いのか、わからないのが我々の立場です。

救われるはずの無かったわたしを、お目当てにしていて下さる仏様に出遇うていけるのが、浄土真宗です。
そのことをお示しくださっている経典が浄土三部経ですね。
それが枝葉であろうと、太い幹であろうと、あまり意味はないのかも知れません。
少なくともわたしには笑

以前にこんな風なことがありました。
わたしが、友人の僧侶に、
「この度、本願寺(西)の本堂(阿弥陀堂と御影堂)が国宝になりましたね。おめでたいですね」

と言いましたら、
「慧心さん、おめでたいですか? わたしにとりましては、その前からずっと国宝以上の宝でしたよ。」
と、返されてしまいました。
国宝かどうかなんてどうでもいいんです。
信仰とはそういうことじゃないかなと思います。

誰かが、良い悪いを決めたり、最高か最低かを判断することが出来ないものなんだと思います。

このわたしが、今救われなければどうしようもない。

今救われる、と言いますのは、
只今ここに、このわたしが成仏することが確定し、それを歓ばせて頂ける。

それが現世の利益でしょう。

ご和讃にも、
弥陀の本願信ずべし、本願信ずる人はみな
摂取不捨の利益にて、無上覚をば悟るなり

と親鸞様もお慶びです。

また、蓮如上人の、信心獲得章のご文章には、

この義は、当流一途のしょだんなるものなり、他流の人に対して、かくのごとく沙汰あるべからざるものなり、よくよく心べきものなり。
とお示しくださいます。

共に歓ばせて頂ければそれで良しです。

何も言い返される必要はないですから、安心してこれからも歓んでお聴聞して頂ければ幸いです。

2017年6月13日 22:20
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有り難し
おきもち

浄土真宗 本願寺派の寺で住職をさせて頂いております。 南無阿弥...

質問者からのお礼

吉武文法様、釋慧心様、回答ありがとうございます。またお礼が遅くなり申し訳ありません。
何も言い返さなくていい、それぞれの信仰を大切にという事で何を言われても自信を持って
信仰していこうと思えました。ありがとうございます。
南無阿弥陀仏

「宗教について」問答一覧

信心するしないは、幸せに関係しますか?

いつも、ありがとうございます。 時々、疑問に思う事を質問させて下さい。 私の母は、昔から凄い信心する人で、私が思うに母が若い時に死ぬような病を祈願してもらって助かったことから、信心するようになったのかもしれません。 私が小さい時、お地蔵さんにお参りなど一緒に連れて行ってました。お寺や神社、お地蔵さん、ほんとによく通ってました。 私達が無事に過ごせますように。とのお願いをしていました。よく聞きますが、自分が年をとって人の手を取らなくていいように…のお願いもしていました。 そして、現在は私に依存しきってます。どんな時も私にです。人の手を取らなくていい!なんて有り得ません。とにかく私は、母の依存に疲れてます。年取ったから仕方ないとは思ってますが、仕事も忙しく、家事もして実家のことまで…それに適応障害の弟の事まで。 信心して、あれ程祈ってたのに。なので私が思うに人の手を取るとかは、自分の心の持ち方で変わると思います。そんな母の幼稚さ?になんだか悲しくなったり… 母は今では全く信心の気持ちは無くなってます。なんで、あんなにお参りしたんだろう?何もならんかった。と言ってます。 それに比べて私の友達の家は全くの無信心です。お父さんが亡くなって初盆でも和尚さんも呼ばずにお経もあげてません。 けれど、お母さんは、いつも前向きで 一人暮らしですが楽しく生活していて、娘(私の友達)に依存する事なく自立しています。 生きていくうえで信心していれば幸せになる、無信心だとご先祖様からも応援してもらえない。 なんて事は、関係ないのでしょうか? それは私の小さい頃からの思い込みでしょうか? 母からの依存は年だから仕方ない、後何年生きるかも分からないから、色々不満を持たずに接して行こう!とは思う時もありますが、ほんとにほんとに疲れます。 体が不自由になった訳でもなく、歩く速度は遅くなりましたが何でもできるのに、ヘルパーさんの仕事に買い物を頼んでるのに、週1は必ず私が買い物に連れて行かなくてはいけない事、それを母は当たり前と思ってる事も…ほんとに疲れてます。 母が亡くなるまで、こんな事が続くのかと思うと何とも言えない気持ちになります。 そんな気持ちを母に言っても何とも思っていません。 こんな私に何かお言葉をお願いします。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 6
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新興宗教の人に業が深いと言われたのですが

おはようございます。 業が深いと言う言葉を昔から聞くのですが、結婚前にしつこく新興宗教に勧誘してくる女性がいました。 私は生まれつき持病がありますが、薬を飲んでコントロール出来て普通に生活をしています。 ある日突然新興宗教の女性に(近所に住む方)会ってしまい、また勧誘されました。 私は仏教徒ですとお断りしていたら「あなたのお母さんは業が深い」と言われました。突然言われ意味を聞くと「あなたのお母さんは前世から悪い行いをしてきたからあなたに持病などがでるんだ。だからうちの宗教に入信すれば大丈夫」など普通他人に言わないであろうことを平気で言われました。 最初は腹も立ちましたが今は母親のことをそんなふうに平気で言われたことが悲しいです。そういう宗教の人なので気にしない様にと思っていますがやはり自分自身が病気をしているのに何故母親のことを言うのか… そして、この方には散々勧誘されつづけ、引っ越してからやっと勧誘が無くなりました。今は自宅や、お寺などでご先祖さまに手を合わせたりお寺でも感謝の気持ちと共に自分の家族をよろしくお願いしますなどお参りさせてもらっています。 そして肝心な仏教では「業が深い」から家族が病気になるや、苦労するといったことはありえますか?よく前世の行いなどで来世で苦労するとは昔から聞くのですが、そうなると病気をしている方は前世で悪い行いをしていることになりますよね…? 肝心な私の母は昔からも何も問題なく暮らしています。私の持病にも普通に前向きですが… そして勧誘してきていた女性の新興宗教はまず神社に行っては行けない、他の仏教や宗教は全て邪教であるのでダメ等など… 業が深いの本当の意味やお坊さん達の解釈はどうなのでしょうか?

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有り難し有り難し 14
回答数回答 2

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