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新興宗教で言われた浄土真宗の悪口について

回答数回答 2
有り難し有り難し 56

家族に新興宗教の集会に連れて行かれ、幹部に浄土真宗の信仰をしようとしているという旨を話され、幹部に浄土真宗などという最低な教えをやる必要はない。枝葉の教えである浄土三部経などではあなたは救われない。と言われてしまいました。
挙句の果てにはお釈迦様などより新興宗教の教祖に従っていればいいなどと言い出す始末です。これは仏教ではありませんよね?そんなことを言われ私は何も言い返すことができませんでした。
私は親鸞聖人の現世利益和讃などを読んでも分かるように浄土真宗にも現世利益はあると思っていますが、間違っていますでしょうか?
また、浄土三部経でもお釈迦様が説かれたのですからちゃんと仏にならさせていただけると思うのですが間違っていますでしょうか?
また、今度集会に連れて行かれた場合、どのように言い返せばいいと思いますか?本来仏教徒であればこういった言い争いがなるべくしないほうがいいと思うのですが、浄土真宗のことを侮辱されたようで悔しいのです。どうぞお知恵をお貸しください。

2017年6月13日 20:04

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

無碍の一道

侮辱されて悔しい気持ちはさぞ辛かったであろうとお察しします。信仰というものは個人にとって非常に大事なものでそれを否定されるのは悲しいですね。

しかし、おっしゃる通り信仰というものは議論して相手と戦い勝つためにあるのではありません。
あなた一人が浄土真宗で本当に救われるのかという事が大切でしょう。あなた一人が救われるのならそこから皆の救いが開けるのです。

私はこれについて詳しくありませんが、浄土三部経が仏説かどうかは今となっては確かめようがないかもしれません。でもそれを言われるとあらゆる教えがそのようにも言えるわけです。

しかし、お経のはじめに「如是我聞」~「このように私は聞きました」とあるように、「私は仏からこう聞きました」と頷いてきた伝統が仏説を証明するのです。あなたが浄土三部経を仏説といただくところに歴史が証明され、その歴史にあなたも参画するのです。

浄土三部経を通じて仏に遇う、そして私も仏に成ることが定まる、それが親鸞聖人の説くところの「現生正定聚」です。真宗の現世利益はここに極まります。現生の今において「往生浄土」が定まるということです。

「往生浄土」とは何か、現世利益和讃に説かれる内容はどういうことか、それを問う歩み、問われる歩みをいただくのです。

現世利益が、病気が治る、お金持ちになる、天災にあわないなどというものなら大したことはありません。
どうせみんな死にます。死なない教えはないのです。

しかし「往生浄土」が定まるとは生死の迷いを超えるということです。死なないわけではありません。死が怖くなることでもありません。「死ぬのが怖いと死んで往けるの両立」なんて言葉もあるように、死の問題が解決するのです。

同じように考えるならば和讃にある「七難消滅」とか「よるひるつねにまもりつつ」ということがどういうことを言っているのか方向性が見えてくると思います。

現実に悪い事がなくなって良い事ばかりあるのが宗祖の言う現世利益ではないでしょう。善悪感からの解放なのです。物事を良い悪いで分別してしまう目がなくなるわけでもありません。「悪いと思っている私」が明らかになり、善悪にとらわれず生きていける歩みをいただくのです。それが何ものにもさえぎられない無碍の一道です。

それぞれの信仰を大切にしましょう。

宗教…少なくとも仏教は他ではなく私を問う教えです。

2017年6月13日 21:42
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有り難し
おきもち

はじめまして。 北海道の道南地区にある若松という農村のお寺に所属しており...

安心してください(^_^)

ヘイズ様

はじめまして、釋 慧心と申します。
拝見させて頂きました。

浄土真宗などという最低な、、
これを聞いて、怒りだす浄土真宗の僧侶は、恐らくですが、いないんじゃないかなと思います。
当たらずともなんとやら、と言いましたら、先生方にお叱りを受けるかも知れませんが。
正直なところ、このみ教えが良いのか悪いのか、わからないのが我々の立場です。

救われるはずの無かったわたしを、お目当てにしていて下さる仏様に出遇うていけるのが、浄土真宗です。
そのことをお示しくださっている経典が浄土三部経ですね。
それが枝葉であろうと、太い幹であろうと、あまり意味はないのかも知れません。
少なくともわたしには笑

以前にこんな風なことがありました。
わたしが、友人の僧侶に、
「この度、本願寺(西)の本堂(阿弥陀堂と御影堂)が国宝になりましたね。おめでたいですね」

と言いましたら、
「慧心さん、おめでたいですか? わたしにとりましては、その前からずっと国宝以上の宝でしたよ。」
と、返されてしまいました。
国宝かどうかなんてどうでもいいんです。
信仰とはそういうことじゃないかなと思います。

誰かが、良い悪いを決めたり、最高か最低かを判断することが出来ないものなんだと思います。

このわたしが、今救われなければどうしようもない。

今救われる、と言いますのは、
只今ここに、このわたしが成仏することが確定し、それを歓ばせて頂ける。

それが現世の利益でしょう。

ご和讃にも、
弥陀の本願信ずべし、本願信ずる人はみな
摂取不捨の利益にて、無上覚をば悟るなり

と親鸞様もお慶びです。

また、蓮如上人の、信心獲得章のご文章には、

この義は、当流一途のしょだんなるものなり、他流の人に対して、かくのごとく沙汰あるべからざるものなり、よくよく心べきものなり。
とお示しくださいます。

共に歓ばせて頂ければそれで良しです。

何も言い返される必要はないですから、安心してこれからも歓んでお聴聞して頂ければ幸いです。

2017年6月13日 22:20
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有り難し
おきもち

浄土真宗 本願寺派の寺で住職をさせて頂いております。 南無阿弥...

質問者からのお礼

吉武文法様、釋慧心様、回答ありがとうございます。またお礼が遅くなり申し訳ありません。
何も言い返さなくていい、それぞれの信仰を大切にという事で何を言われても自信を持って
信仰していこうと思えました。ありがとうございます。
南無阿弥陀仏

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今の世の中は情報で溢れています。 スマホって簡単にいろいろ調べることができて、情報で溢れかえっています。 心がツライときや精神的にしんどいときに、 精神的に弱く強くなりたいなぁ 傷つきやすい性格を変えたいなぁと思い、 検索魔になって検索すると、 あれやこれやいろいろ出てきて、 何が良くて何が悪いわけではないと理解していますが、情報が多すぎて、よくわからなくなってきます。 何がホントなのか?何を信じていいのか? きっと私意外にも藁をもすがる思いで、いろいろ検索する人もいると思います。 (確固たる宗教など崇拝してる方は、このような迷いはないかと思いますが…) 信じたいことだけ信じてればいいのでしょうか? 仏教的な目線は下記のことはどのように思われますか? 全ての出来事は引き寄せ? 出会う人や出来事は偶然?必然? 自分に起こる出来事は必ず必要? 乗り越えられない試練はない? 健康に問題があるときは暗示? 仏様にお願い?神様にお願い? 宇宙に任せる? 自分の胸にすーっと収まった言葉こそがご縁があり、その時に、ん?なんか腑に落ちないなって思う言葉は受け入れなければいいのでしょうか? そのような言葉でも後から受け入れるようになるかもしれませんが… 私自身、家に仏壇もあり仏教ですが、正直、意識するときはお墓まいりや法事の時だけです。ですが、今度はお墓があるお寺に仏教講座があるので、参加しようと思っています。 自分勝手な考え、散文、お許し下さい。 お手数お掛けします。よろしくお願い申し上げます。

有り難し有り難し 19
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信仰ってなんだろう

私は、信仰するということの概念について悩んでいます。何故なら、私は、神様や仏様の存在を信じてはいるのですが、それは人間の心の内にある概念に過ぎず、形而下で捕捉できるものではないと思っており、この考え方が取っ払えない以上は心底から神仏を信仰することは叶わないのではという疑念を抱いているからです。 私がこのような考え方をもったきっかけは、遠藤周作さんによる著書「沈黙」を読んだことです。ご存知でない方に簡単にあらすじを説明しますと、キリスト教の弾圧があった江戸時代に、ある宣教師が拷問の末に棄教したという報を受けてその弟子が真相を求めて来日し、救いを求める弱い隠れキリシタンや彼らを拷問にかける大名と出会いながら、仏教との相違や絶対神の是非について考え、葛藤するというものです。 私がこの小説で衝撃を受けたのは、諸行無常の考えを礎とした仏教を信仰しているはずの大名が、キリシタンだというだけで農民の魔女狩りを行い、キリスト教の弾圧に執心していたことです。 宗教というのは、固まった思想を提示することで人々の心を安定させたり、民衆を統制させる側面があるとは思うのですが、劇中のように政の道具としての扱いにとどまったり、科学が普及した現在において金稼ぎのダシに成り下がってしまったりする宗教文化を多々見ると、もしかして心の底から神仏の存在を信仰することは最早なり得ないのではないか、という疑念を感じずにはいられません。 こうした疑念に輪をかけるのが、自然の脅威です。現在猛威を振るうコロナウイルスや、台風、地震などといった災害は、私たちにとっては害悪でしかなく、早期の収束や撲滅を願われるばかりですが、それらの現象は我々の嘆願とは関係なくただ事実として存在するのみであり、これらを既成の宗教概念によって説明するには限界が生じるのではないかと思います。それを考慮すると、我々に都合の良い神仏への疑念が益々助長されるばかりです。 私は、目的によっては多少の方便は許されても良いと思っていますが、神仏を本気で現実のものと信じている方々のことを考えるとどうしても後ろめたいものを感じます。こうしたことについて、僧侶の皆様はどう思われるのでしょうか。冒涜と思われるのでしょうか。それとも、これも信仰と思われるのでしょうか。 大変無礼な質問であると承知しておりますが、何卒宜しくお願いいたします。

有り難し有り難し 27
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神を信じているはずなのに~相談します。

私は神の実在を信じています。でも、各宗教の説く信仰の世界になじめず、ひとりでさまよっています。 私の煩悩は「自殺したい」とか「神よ私を速やかに殺してください」と願うことです。 自殺すると仏教で言う「無間地獄」に堕ちると信じるので、具体的にはあの世で自殺霊・地縛霊になり、救われることはないと信じるため、怖くて実行できません。 そんな人生否定の感情や死後の恐怖から生きるとしたら、なんと消極的で暗い、マイナスの人生観・生活観でしょうか? 私は人生の初期に親から新興宗教の経典を読まされ、神棚の前に正座して「人生は苦悩なり」という経文を唱えさせられていたことが、そもそもの間違いの始まりだったのではないか?と思います。 小学生のころから「人生は苦悩なり」と権威をもって教え込まれるのではなく、夢や希望や「わくわくすること」を追いかけてがんばり、その夢をつかむよう教えられるべきだったのでは?と思います。 小中学校時代、その新興宗教の夏季合宿に必ず参加させられていました。 中学に進学したとき無意識に友達の前で「あ~死にたい!」と口にして嫌われました。そのころそんなことを言う子は一人もいませんでした。 高校時代は「自分は不幸だ」と友達に告げて「じゃあ、なぜ自殺しないのか?」と問われました。 大学時代、変な宗教に強引に勧誘され「早く過ぎ去れ、青春よ~!」という歌を歌わされました。 大学卒業後は自殺未遂をして精神科に入院することになり、絶望のどん底でした。 3年後、父の死をきっかけに退院して新聞配達や肖像画制作をしてがんばり、登山までするようになったのですが、15年ほどで体力が衰え、失職してひきこもりになり、医師の診断通り「統合失調症」ということを受け入れざるを得なくなりました。幻覚も妄想もない統合失調症患者もいるということですが、私もそのひとりなのだと思います。 症状は「疲れやすさ」「意欲の低下」「睡眠障害」の3つです。 神への信仰、医療に頼っていますが、仏教文化も私には必要で、多くの影響を色濃く受けています。「般若心経」「観音経」「白隠禅師和讃」を仏前であげることもあります。CD集『ひろさちやの感動するお経』全8巻も繰り返し聴いています。 障害年金で暮らし、身近に相談相手もいない私は母亡き後果たして生きて行けるのか心配と不安で夜も眠れないほど悩んでいます。

有り難し有り難し 9
回答数回答 1

キリスト教か仏教か。

いつも、相談にのっていただきありがとうございます。 ストレートで申し訳ないのですが、キリスト教を信仰するか、仏教を信仰するか、迷っています。 キリスト教の教会は10年ほど前ですが、通っていました。信仰告白もして、あとは洗礼を受けるだけ…という所までいったのですが、別れた主人が浄土真宗のお寺の孫でキリスト教なんてとんでもない!と激怒され、そこから疎遠になってしまいました。 仏教はお経を今、私なりの言葉でわかりやすく訳していて、お釈迦様や阿弥陀如来の智慧に向き合う度に泣くほど感動することもあって、とても心を惹かれています。 幸い、わからないことがあったら聞いてくださいねと言っていただける僧侶の方とも出会うことが出来て、何度か質問もしました。 その僧侶の方の人となりだと思うのですが、終始、仏様を信じられたらいいですね。と言ってくれます。 私は仏様を信じたいと思っていますし、お経から導かれたこのご縁を大事にしたいとも考えています。 ただ、どうしたらいいのかわからないのです。キリスト教の時は日曜日の礼拝から始まり、聖書の勉強会を定期的にすることで 信仰を深めて行くことが出来たのですが、仏教は敷居が高いと言うか、私の住んでいる地域では勉強会もないですし、法話会もこのご時世なのでやっていない所も多く、やっていても都合が合わなかったりでなかなか信仰が深められません。 そんな時にクリスチャンの友人からまた、教会に行かない?と誘われました。 私の気持ちは仏教に傾いているので、教会に行く気持ちはないのですが、正直揺らいでいるのも事実です。 どうしたら、今ご縁がある僧侶の方に仏教を信じたい!仏教の勉強がしたい!という私の気持ちが伝わるのでしょうか? 仏教の勉強が出来るサイトや学校みたいな所も見つけたのですが、お金がそこそこかかるようでカツカツで暮らしている今の現状では厳しく…。 内容が前後して申し訳ないのですが、ご縁があった僧侶の方には信じたいということも、もっと勉強したいということも伝えています。それでも、返ってくる言葉は「信じられたらいいですね〜」という感じで、最近は私と関わってしまったことを面倒臭く感じているのでは?と思うことしきりです。 長文駄文失礼しました。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 30
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