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新興宗教で言われた浄土真宗の悪口について

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有り難し有り難し 88

家族に新興宗教の集会に連れて行かれ、幹部に浄土真宗の信仰をしようとしているという旨を話され、幹部に浄土真宗などという最低な教えをやる必要はない。枝葉の教えである浄土三部経などではあなたは救われない。と言われてしまいました。
挙句の果てにはお釈迦様などより新興宗教の教祖に従っていればいいなどと言い出す始末です。これは仏教ではありませんよね?そんなことを言われ私は何も言い返すことができませんでした。
私は親鸞聖人の現世利益和讃などを読んでも分かるように浄土真宗にも現世利益はあると思っていますが、間違っていますでしょうか?
また、浄土三部経でもお釈迦様が説かれたのですからちゃんと仏にならさせていただけると思うのですが間違っていますでしょうか?
また、今度集会に連れて行かれた場合、どのように言い返せばいいと思いますか?本来仏教徒であればこういった言い争いがなるべくしないほうがいいと思うのですが、浄土真宗のことを侮辱されたようで悔しいのです。どうぞお知恵をお貸しください。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

無碍の一道

侮辱されて悔しい気持ちはさぞ辛かったであろうとお察しします。信仰というものは個人にとって非常に大事なものでそれを否定されるのは悲しいですね。

しかし、おっしゃる通り信仰というものは議論して相手と戦い勝つためにあるのではありません。
あなた一人が浄土真宗で本当に救われるのかという事が大切でしょう。あなた一人が救われるのならそこから皆の救いが開けるのです。

私はこれについて詳しくありませんが、浄土三部経が仏説かどうかは今となっては確かめようがないかもしれません。でもそれを言われるとあらゆる教えがそのようにも言えるわけです。

しかし、お経のはじめに「如是我聞」~「このように私は聞きました」とあるように、「私は仏からこう聞きました」と頷いてきた伝統が仏説を証明するのです。あなたが浄土三部経を仏説といただくところに歴史が証明され、その歴史にあなたも参画するのです。

浄土三部経を通じて仏に遇う、そして私も仏に成ることが定まる、それが親鸞聖人の説くところの「現生正定聚」です。真宗の現世利益はここに極まります。現生の今において「往生浄土」が定まるということです。

「往生浄土」とは何か、現世利益和讃に説かれる内容はどういうことか、それを問う歩み、問われる歩みをいただくのです。

現世利益が、病気が治る、お金持ちになる、天災にあわないなどというものなら大したことはありません。
どうせみんな死にます。死なない教えはないのです。

しかし「往生浄土」が定まるとは生死の迷いを超えるということです。死なないわけではありません。死が怖くなることでもありません。「死ぬのが怖いと死んで往けるの両立」なんて言葉もあるように、死の問題が解決するのです。

同じように考えるならば和讃にある「七難消滅」とか「よるひるつねにまもりつつ」ということがどういうことを言っているのか方向性が見えてくると思います。

現実に悪い事がなくなって良い事ばかりあるのが宗祖の言う現世利益ではないでしょう。善悪感からの解放なのです。物事を良い悪いで分別してしまう目がなくなるわけでもありません。「悪いと思っている私」が明らかになり、善悪にとらわれず生きていける歩みをいただくのです。それが何ものにもさえぎられない無碍の一道です。

それぞれの信仰を大切にしましょう。

宗教…少なくとも仏教は他ではなく私を問う教えです。

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おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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安心してください(^_^)

ヘイズ様

はじめまして、釋 慧心と申します。
拝見させて頂きました。

浄土真宗などという最低な、、
これを聞いて、怒りだす浄土真宗の僧侶は、恐らくですが、いないんじゃないかなと思います。
当たらずともなんとやら、と言いましたら、先生方にお叱りを受けるかも知れませんが。
正直なところ、このみ教えが良いのか悪いのか、わからないのが我々の立場です。

救われるはずの無かったわたしを、お目当てにしていて下さる仏様に出遇うていけるのが、浄土真宗です。
そのことをお示しくださっている経典が浄土三部経ですね。
それが枝葉であろうと、太い幹であろうと、あまり意味はないのかも知れません。
少なくともわたしには笑

以前にこんな風なことがありました。
わたしが、友人の僧侶に、
「この度、本願寺(西)の本堂(阿弥陀堂と御影堂)が国宝になりましたね。おめでたいですね」

と言いましたら、
「慧心さん、おめでたいですか? わたしにとりましては、その前からずっと国宝以上の宝でしたよ。」
と、返されてしまいました。
国宝かどうかなんてどうでもいいんです。
信仰とはそういうことじゃないかなと思います。

誰かが、良い悪いを決めたり、最高か最低かを判断することが出来ないものなんだと思います。

このわたしが、今救われなければどうしようもない。

今救われる、と言いますのは、
只今ここに、このわたしが成仏することが確定し、それを歓ばせて頂ける。

それが現世の利益でしょう。

ご和讃にも、
弥陀の本願信ずべし、本願信ずる人はみな
摂取不捨の利益にて、無上覚をば悟るなり

と親鸞様もお慶びです。

また、蓮如上人の、信心獲得章のご文章には、

この義は、当流一途のしょだんなるものなり、他流の人に対して、かくのごとく沙汰あるべからざるものなり、よくよく心べきものなり。
とお示しくださいます。

共に歓ばせて頂ければそれで良しです。

何も言い返される必要はないですから、安心してこれからも歓んでお聴聞して頂ければ幸いです。

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おきもち

浄土真宗本願寺派です。 有髪に非僧非俗、 肉食妻帯(現在は独身ですが)...
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質問者からのお礼

吉武文法様、釋慧心様、回答ありがとうございます。またお礼が遅くなり申し訳ありません。
何も言い返さなくていい、それぞれの信仰を大切にという事で何を言われても自信を持って
信仰していこうと思えました。ありがとうございます。
南無阿弥陀仏

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