あの人と大日如来様は同一人物?回答受付中
これは、たまたま調べた時にふと気になったのですが、ユダヤ教のあの人をご存知ですよね。
あの人のことが気になって調べていたのですが…解説する人によりますが、宇宙の根源なんだとか。その時、ふと頭に大日如来様が浮かびました。大日如来様も宇宙の真理そのもの。なら、あの人と大日如来様はなんだ?どういうご関係なんだ?と思ってしまいました。そこで質問なのですが、あの人は宇宙の根源(多分)、大日如来様は真理。なら、同じ宇宙に関わりある者たちとして、同一視してもいいものなのでしょうか?(大日如来様も宇宙の根源と捉えていいものだろうかと)
ちなみに私はユダヤ教も仏教も大好きです。
ご回答お待ちしています。
お坊さんからの回答 2件
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とても面白い問いですね。宗教を越えて「根源」を見つめようとする姿勢は、私はとても誠実だと思います。
まず整理しましょう。ユダヤ教で「宇宙の根源」と語られる存在は、一般的には唯一神(ヤハウェ)です。神は世界を創造した“創造主”であり、世界とは区別される存在です。創造主と被造物は基本的に分けて考えます。神は人格的で、意志を持ち、語り、命じる存在です。
一方、密教における大日如来は、創造神ではありません。大日如来は「宇宙をつくった神」というより、「宇宙そのものの真理が仏として表現された姿」です。宇宙の法則・縁起・空の働き、その全体性を象徴する存在です。人格神というより、法そのもの、真理そのものに近い。
ですから、両者は「宇宙に関わる究極的存在」という点では似た表現が使われることがありますが、思想構造はかなり異なると思います。
ユダヤ教の神は
・世界を超えている(超越)
・世界を創造した
・人格的存在
大日如来は
・世界そのものとして現れている(内在)
・創造というより“顕れ”
・真理の象徴
という違いがあります。
では、同一視してよいのか。学問的・教義的には「そのまま同一」とは言えません。背景となる世界観が違うからです。
しかし、「究極の実在をどう表現するか」という問いに対する、異なる文化的答えだと捉えることはできます。一神教はそれを「唯一の神」と呼び、密教はそれを「法身仏・大日如来」と呼んだ。
人間が究極を言葉で表そうとすると、どうしても象徴や人格化が起きます。だから「同じか違うか」というより、「異なる言語で語られた究極」と見る方が良いと思います。
そしてあなたのもう一つの問い。「大日如来を宇宙の根源と捉えてよいか?」
密教的には「宇宙の根源」というより、「宇宙のあり方そのもの」と言った方が正確です。何かの“原因”というより、“常にそうである法則”に近い。
私はこう考えます。同一視することよりも、「なぜ両方に惹かれるのか」を大切にした方がいい。あなたは“根源”というテーマに心が動いた。それはとても宗教的に成熟した問いです。
無理に融合させなくてもよい。違いを尊重し、どちらも大切にするのが良いと思います。
宇宙の真理を、人格として語るか。
宇宙の真理を、法として語るか。
その違いを味わうこと自体が、すでに深い探究だと思います。
如来(仏)に煩悩はない
如来(仏)には煩悩がないので、怒り・悲しみや妬み、欲望やプライド(慢)はありません。
あなたが想定しているのが「妬む神」であるとされるあの神様であるなら、妬み(煩悩の一種)があるので如来には該当しないと思います。
個人的には、大日如来ではなく梵天であれば該当するかも知れません。
2600年前にお釈迦様が悟られたとき、梵天が現れてお釈迦様に、人々へ教えを説いてくださいと請われたとされています。(梵天勧請)
その500年後くらいに、キリストが出現しましたね。
お釈迦様の教え(智慧と慈悲)に感化された梵天が500年後にキリストを地球に遣わした、と考えれば面白いと、私個人的に妄想しております。
何億年単位で動いている宇宙において、たった数百年で神様に方針転換を起こさせたのは、お釈迦様の影響ではないかと考えるとしっくりきます。


