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私は物事を考えすぎているのでしょうか?

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有り難し有り難し 46

はじめまして。
私は長い間、それこそ中学生の頃から、生きる事について自分なりに考えて参りました。

幼い頃は、生きるとは正しく(簡単にいうと道徳で習うような基本的なこと)在るよう努め、幸せになる事と思っておりました。

しかし、今までを振り返ると、正しさは私の人生において、幸せになる事とは異なる存在でした。

なぜ嘘をつくのか、なぜ陰口をいうのか、なぜ優しくしないのか、なぜ相手の立場に立って話をしないのか、なぜ傷付け傷つけられるのか…

これらのある種意味のない疑問を持ち考え続けたことで、大切な人達にも息苦しい思いや悲しい思いをさせてきことがあると思います。実際に、そこまで正しく生きれない、お前を見てると辛いと言われてしまったことがあります…

また、私自身も、正しさに執着し過ぎている為か、怒り悲しみを抑え込み、何よりも叶えたい強い望みも、他者の悲しみの上でしか成立しないと思うと何もできず、消化出来ない感情や気持ちとの矛盾で頭と心が度々悲鳴をあげます。
(勿論、抑えきれないない時もあります。その時は自己嫌悪で悲鳴をあげております…)

そんな時にであったのが「人は苦しむためにこの世を生きる。現世で苦しみカルマをかることで、生まれ変わりの輪から抜け出すために人は生きている。」という一文でした。

おかしな話ですが、とても救われたきがしました。幸せにならなくて良い、正しさを求め苦しむことは、間違いではない、と言われた気が致しました。

ただ(だいぶ長い前説となってしまいましたが…)本当に根本的な事なのですが、正直、ここまで考えて生きる必要があるのか、疑問に思う自身もおります。
身近な人たちにこの様な話をすると、そこ迄考えなくて良いと言われてしまいます。

私は…考えすぎなのでしょうか?
もう少し気楽に、幸せを求める方が健全なのでしょうか…
(ただ、私は現在も決して不幸ではなく、むしろ感謝がつきない日々を送っておりますので、幸せと言う言葉には少し語弊があるかもしれませんが…)

長文の割りにあまり意図が伝わりにくい内容となってしまい申し訳ありません。なるべく素直に頭の中の言葉を書き出させて頂きました。

ご意見をお聞かせ頂けましたら幸いです。
どうぞよろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

いいかげんに過ごす。

ものすごく悩まれた結果、その考えにたどりついたのですね。

考えすぎかどうかという質問に答えるのならば、そんなことはありません。
もっともっと考えて、「正しさ」「幸せ」について突き詰めていくのも、
決して悪いことではないと思います。

ただ、もう少し気楽に幸せを求める方が健全なのでしょうか、という質問に関しても、
そうかもしれませんね、と思います。
「健全」かどうかを決めるのは自分なので、一旦置いておいても、
もう少し気楽に、幸せを求めることも、悪くないのです。

私は、「人は苦しむためにこの世を生き」ている訳ではないと思っています。
お釈迦さまは、「生・老・病・死」などの苦から離れるために出家し、
瞑想ののちに悟りに至りました。

有無さんは、ご自身で仰っているように、正しさに執着しすぎているのかもしれません。
なぜ嘘をつくのか、なぜ陰口を言うのか、なぜ優しくしないのか……、
などなどのことは、すべて有無さんにとってみれば、他人の行いです。
まずは自分が正しくあるように努める方が先で、
他人などは放っておけばよいのです。

少し「いいかげん」に過ごすくらいの方が、楽しく過ごせます。
「いいかげん」は「良い加減」。
中道を知り、極端を避けるということです。

中道を意識しつつ、「正しさ」や「幸せ」について、考えを深めていけば、
じきに、自分にちょうど良いと思える、
正さを求めても苦しくない道がみつかると思います。

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おきもち

浄土宗の佐山と申します。 浄土宗教師の資格を得たあと、10年間のサラリーマン生活ののちに、この羅漢寺にお世話になり、2014年に住職として晋山いたしました。 現在は、「ここより」というサイトの編集長を務めています。 まだまだ悩める道の途中ですが、少しでも皆さまの力となれるよう、がんばります。

自分が提起した問題を自分で解決させればスッキリしましょう。

あなたは、
・正しさという正義の剣で他人も自分までも切り付けてしまった。
・自分の問題提起が自分で解決されないままであるのに、他人にそれを強要してしまっていた。
あなたはおそらく本当の「正しさ」に出会っておられないと思います。
「正しさ」「正義」というものは考えであり、ある種危険思想なのです。

人間の「あるべき」と
天地自然の「あるべき」と
人間を極めた仏の「あるべき」というものは違うのです。
本当の正しさというのは、決してそんな窮屈なものではないのです。
「人は苦しむためにこの世を生きる。現世で苦しみカルマをかることで、生まれ変わりの輪から抜け出すために人は生きている。」
↑ この一節にしても矛盾点を申し上げれば、
「苦しむために生きる」なんて悲惨な生き方をする必要はありません。
現世というと来世が想起される。その直後、本当の現世、たった今、目の前がおろそかになる。あなたを苦しませたのは、正義感、自分の立てたルールでしょう。
それをたった今という現世で、断ち切りましたから、負の無限ループという輪から抜け出すことができましたよ。
だから、この一節は、あなたは救われたにせよ、ちょっとアヤシイ響きも持っているので、一般世間にも通じるような、もう少し理知的で、明晰さを持った言葉を信じるようにしましょう。
有無を論ぜず 有無のどちらにも偏らず 有無にわたらざる心は いかなる心か。
興味があったら坐禅会にお越しください。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

「人に迷惑をかけるな」

 前半の「なぜ?」シリーズは、みな同じ答えがあります。「自分が可愛いから・自分が世の中で一番大切だから」。聞いてみればナァーンダかも知れませんが、ようは「人間、理想のようには生きられないよ」というのが土台です。ここまで来ると、「そこまで正しく生きられない」と同じ根ですネ。なぜ辿り着けないのか。多分、「正しさ」というのは「言葉の上にしかない」からだと思います。あるいは「仏さま(人にムと書きますし)=人ではない存在」が「正しい」から。
 つまり「正しさというものは、追究しきれないと知りなさいよ」ということだと思います。追究するな、捨て置けというのではないと思います。「追究しきらないと納得できない!」というのが執着です。
 そこを諦める…のは嫌ですか?怖いですか?でも、それは不利でも弱味でもありません。むしろ夢から醒めた状態。これが、「幸せ」に繋がっているような気がします。
 私が典型的な例と思っているのは「人に迷惑をかけるな」という「正しい考え」です。「他人を傷つけたり、悲しませてはいけない。自分を悲しませてはいけない。」それは「言葉上は全く問題ない、100点満点の正解」なのですが、実施しようとすると途端に躓く。「言葉通りにはやりきれない」ことが分かると…
 謙虚になり、感謝の日々が始まります。「自分は、ゴメンネって言って良いんだ」「他人に甘えてもいいんだ」。「自分が一番可愛い」人間が、それでも他人へ少し手を貸してくれる事がある。そこに「人間の世のありがたさ」はあるのだろうと思います。
 もう一つ、「考えすぎなのか?」ということです。ときどき、世の人たちが「あれ買って嬉しい、旅行行って嬉しい」を声高に話す(要するに自慢げ)のが聞こえると、あまりいい気はしません。「楽しそうで良かったね」とは思うけれど。…それよりも、半ば偶然な嬉しさの方が好きです。「小さな幸せ、小さなありがとう」に気づくセンスが自分にあると思う時は、嬉しくなりますね。
 そう、「幸せを求めるよりも、幸せに気づく自分でありたい」ということです。
 もしもこのhasunohaで、お坊さん方の答えの中に、あなたにピッタリのモノがあったなら、取りあえずこの問いが浮かんでくる機会は減ると思います。いいんじゃないでしょうか、考え続けても。「考えてたら、歯磨き忘れた!」ではどうかと思いますけれど。

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有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

怒りも煩悩です。

怒りは煩悩ですから、悩み苦しみの原因です。
正義が理由であっても、怒ったら苦しむのは自分です。
なので、正しく生きつつも、悪に対して怒らない、仏様の生き方が理想ですよね。
正しくても怒ったら負け、が、仏道修行というゲームのルールなのです。
怒らないためには、他人への慈しみ、あわれみを持つのが有効でしょう。
そのためには、悪いことをしてしまった他人の人生、生い立ち、そうせざるをえない状況・能力について、想像してみてはどうでしょうか。

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おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

煩悩スッキリコラムまとめ