私は物事を考えすぎているのでしょうか?
はじめまして。
私は長い間、それこそ中学生の頃から、生きる事について自分なりに考えて参りました。
幼い頃は、生きるとは正しく(簡単にいうと道徳で習うような基本的なこと)在るよう努め、幸せになる事と思っておりました。
しかし、今までを振り返ると、正しさは私の人生において、幸せになる事とは異なる存在でした。
なぜ嘘をつくのか、なぜ陰口をいうのか、なぜ優しくしないのか、なぜ相手の立場に立って話をしないのか、なぜ傷付け傷つけられるのか…
これらのある種意味のない疑問を持ち考え続けたことで、大切な人達にも息苦しい思いや悲しい思いをさせてきことがあると思います。実際に、そこまで正しく生きれない、お前を見てると辛いと言われてしまったことがあります…
また、私自身も、正しさに執着し過ぎている為か、怒り悲しみを抑え込み、何よりも叶えたい強い望みも、他者の悲しみの上でしか成立しないと思うと何もできず、消化出来ない感情や気持ちとの矛盾で頭と心が度々悲鳴をあげます。
(勿論、抑えきれないない時もあります。その時は自己嫌悪で悲鳴をあげております…)
そんな時にであったのが「人は苦しむためにこの世を生きる。現世で苦しみカルマをかることで、生まれ変わりの輪から抜け出すために人は生きている。」という一文でした。
おかしな話ですが、とても救われたきがしました。幸せにならなくて良い、正しさを求め苦しむことは、間違いではない、と言われた気が致しました。
ただ(だいぶ長い前説となってしまいましたが…)本当に根本的な事なのですが、正直、ここまで考えて生きる必要があるのか、疑問に思う自身もおります。
身近な人たちにこの様な話をすると、そこ迄考えなくて良いと言われてしまいます。
私は…考えすぎなのでしょうか?
もう少し気楽に、幸せを求める方が健全なのでしょうか…
(ただ、私は現在も決して不幸ではなく、むしろ感謝がつきない日々を送っておりますので、幸せと言う言葉には少し語弊があるかもしれませんが…)
長文の割りにあまり意図が伝わりにくい内容となってしまい申し訳ありません。なるべく素直に頭の中の言葉を書き出させて頂きました。
ご意見をお聞かせ頂けましたら幸いです。
どうぞよろしくお願い致します。
お坊さんからの回答 4件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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いいかげんに過ごす。
ものすごく悩まれた結果、その考えにたどりついたのですね。
考えすぎかどうかという質問に答えるのならば、そんなことはありません。
もっともっと考えて、「正しさ」「幸せ」について突き詰めていくのも、
決して悪いことではないと思います。
ただ、もう少し気楽に幸せを求める方が健全なのでしょうか、という質問に関しても、
そうかもしれませんね、と思います。
「健全」かどうかを決めるのは自分なので、一旦置いておいても、
もう少し気楽に、幸せを求めることも、悪くないのです。
私は、「人は苦しむためにこの世を生き」ている訳ではないと思っています。
お釈迦さまは、「生・老・病・死」などの苦から離れるために出家し、
瞑想ののちに悟りに至りました。
有無さんは、ご自身で仰っているように、正しさに執着しすぎているのかもしれません。
なぜ嘘をつくのか、なぜ陰口を言うのか、なぜ優しくしないのか……、
などなどのことは、すべて有無さんにとってみれば、他人の行いです。
まずは自分が正しくあるように努める方が先で、
他人などは放っておけばよいのです。
少し「いいかげん」に過ごすくらいの方が、楽しく過ごせます。
「いいかげん」は「良い加減」。
中道を知り、極端を避けるということです。
中道を意識しつつ、「正しさ」や「幸せ」について、考えを深めていけば、
じきに、自分にちょうど良いと思える、
正さを求めても苦しくない道がみつかると思います。
自分が提起した問題を自分で解決させればスッキリしましょう。
あなたは、
・正しさという正義の剣で他人も自分までも切り付けてしまった。
・自分の問題提起が自分で解決されないままであるのに、他人にそれを強要してしまっていた。
あなたはおそらく本当の「正しさ」に出会っておられないと思います。
「正しさ」「正義」というものは考えであり、ある種危険思想なのです。
人間の「あるべき」と
天地自然の「あるべき」と
人間を極めた仏の「あるべき」というものは違うのです。
本当の正しさというのは、決してそんな窮屈なものではないのです。
「人は苦しむためにこの世を生きる。現世で苦しみカルマをかることで、生まれ変わりの輪から抜け出すために人は生きている。」
↑ この一節にしても矛盾点を申し上げれば、
「苦しむために生きる」なんて悲惨な生き方をする必要はありません。
現世というと来世が想起される。その直後、本当の現世、たった今、目の前がおろそかになる。あなたを苦しませたのは、正義感、自分の立てたルールでしょう。
それをたった今という現世で、断ち切りましたから、負の無限ループという輪から抜け出すことができましたよ。
だから、この一節は、あなたは救われたにせよ、ちょっとアヤシイ響きも持っているので、一般世間にも通じるような、もう少し理知的で、明晰さを持った言葉を信じるようにしましょう。
有無を論ぜず 有無のどちらにも偏らず 有無にわたらざる心は いかなる心か。
興味があったら坐禅会にお越しください。
「人に迷惑をかけるな」
前半の「なぜ?」シリーズは、みな同じ答えがあります。「自分が可愛いから・自分が世の中で一番大切だから」。聞いてみればナァーンダかも知れませんが、ようは「人間、理想のようには生きられないよ」というのが土台です。ここまで来ると、「そこまで正しく生きられない」と同じ根ですネ。なぜ辿り着けないのか。多分、「正しさ」というのは「言葉の上にしかない」からだと思います。あるいは「仏さま(人にムと書きますし)=人ではない存在」が「正しい」から。
つまり「正しさというものは、追究しきれないと知りなさいよ」ということだと思います。追究するな、捨て置けというのではないと思います。「追究しきらないと納得できない!」というのが執着です。
そこを諦める…のは嫌ですか?怖いですか?でも、それは不利でも弱味でもありません。むしろ夢から醒めた状態。これが、「幸せ」に繋がっているような気がします。
私が典型的な例と思っているのは「人に迷惑をかけるな」という「正しい考え」です。「他人を傷つけたり、悲しませてはいけない。自分を悲しませてはいけない。」それは「言葉上は全く問題ない、100点満点の正解」なのですが、実施しようとすると途端に躓く。「言葉通りにはやりきれない」ことが分かると…
謙虚になり、感謝の日々が始まります。「自分は、ゴメンネって言って良いんだ」「他人に甘えてもいいんだ」。「自分が一番可愛い」人間が、それでも他人へ少し手を貸してくれる事がある。そこに「人間の世のありがたさ」はあるのだろうと思います。
もう一つ、「考えすぎなのか?」ということです。ときどき、世の人たちが「あれ買って嬉しい、旅行行って嬉しい」を声高に話す(要するに自慢げ)のが聞こえると、あまりいい気はしません。「楽しそうで良かったね」とは思うけれど。…それよりも、半ば偶然な嬉しさの方が好きです。「小さな幸せ、小さなありがとう」に気づくセンスが自分にあると思う時は、嬉しくなりますね。
そう、「幸せを求めるよりも、幸せに気づく自分でありたい」ということです。
もしもこのhasunohaで、お坊さん方の答えの中に、あなたにピッタリのモノがあったなら、取りあえずこの問いが浮かんでくる機会は減ると思います。いいんじゃないでしょうか、考え続けても。「考えてたら、歯磨き忘れた!」ではどうかと思いますけれど。
怒りも煩悩です。
怒りは煩悩ですから、悩み苦しみの原因です。
正義が理由であっても、怒ったら苦しむのは自分です。
なので、正しく生きつつも、悪に対して怒らない、仏様の生き方が理想ですよね。
正しくても怒ったら負け、が、仏道修行というゲームのルールなのです。
怒らないためには、他人への慈しみ、あわれみを持つのが有効でしょう。
そのためには、悪いことをしてしまった他人の人生、生い立ち、そうせざるをえない状況・能力について、想像してみてはどうでしょうか。