自分が原因で相手に迷惑をかけた後悔
私はこれまでの人生の中で、私が原因で相手に迷惑をかけたことが何度もあります。
やらなくてはいけないことを惰性でやらなかったり、言い訳を作って逃げたりしていました。そのせいで、いろんな人から嫌われ、孤独になりました。最近、頻繁にフラッシュバックを起こし、何であの時ああしなかったんだろう、あの人は今も私を恨んでいるに違いない……と、どんどんネガティヴな感情を起こしてしまいます。
他人の悩みを聞くたびに、どこかで「でも、私なんかよりこの人はましだ…」なんて思ってしまうどうしようもない自分がいます。その人達はちょっとずつでも前を向いて生きているのに、私はそれができません。本当につらいです。「これから反省を生かして生きていけばいい」と言われると「でも、私はいろんな人に恨まれ嫌われるようなことをした。私がこの失敗を乗り越え、上手く楽しく生きていくことをきっと彼らは許さないだろう」と思ってしまいます。自分でも卑屈な考えだと頭では思うのですが、どれだけ頑張ってもこの気持ちが拭えません…。
私は、こんなにも人に嫌われながら、これからの人生を歩んでも良いのでしょうか? 何度も後悔しましたが、後悔から先に進むことができません。他人の私に対する目が気になってたまらないのです。それでも、変わりたいと思って、このサイトで質問させて頂くことにしました。どんなことでも構いませんので、ぜひ、アドバイスをよろしくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
無慙愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす
ご相談拝読しました。
>変わりたいと思って、このサイトで質問させて頂くことにしました。
この言葉が出た時点でもう変わり始めているのではないでしょうか?これからは「惰性でやらなかったり、言い訳を作って逃げたり」ということのないように努めてみましょう。
その努力は周りの人に許してもらうためにするのではありません。あなたが後悔しないためにするのです。
実際には周りの人が許さないわけではないでしょう。「私が変わっても周りの人が許さないから…」というのは言い訳ではないでしょうか?
もう後悔は十分してきたのでしょう?これからは後悔を反省につなげていきましょう。
「相手に迷惑をかけて申し訳なかった、これからはそうならないようにしたい」
というのが反省です。
「相手に迷惑をかけて申し訳なかった、これで私がどう思われるか心配」
というのが後悔です。後悔は自分のことばかりの目線でしょう?反省はそこから一歩相手の立場に進んでいるでしょう?
反省を仏教的にさらに深めるならば慙愧(ざんき)・懺悔(さんげ)となります。懺悔は一向寺さんが触れておられますので慙愧について。
「慙」も「愧」も恥ずかしいという意の字ですがこれはどう恥ずかしいのかというと、他人いに迷惑をかけてしまって世間からの目が恥ずかしいというものではありません。
あなた自身が人として自らの行いや有り様を恥じるという意味です。たとえ世間からのおとがめがなくとも、これはしてはいけないだろうということをしてしまうのが人間です。本当はわかっているのにしてしまうのです。
そのことをそのまま良しとするか、事実を認めて恥じる心を持つか…今あなたは変わりたいと願ったのです。
誰かから認められるための変化は必要ありません。あなたが本当になりたいあなたになるため、他人からどう思われるかではなく、あなたが本当にこれまでのあなたでいいのかどうか問うてみてください。
でもね、仏様はそのままのあなたでいいよとおっしゃります。私たち仏教徒はそのことに本当に気がつくが故に逆にそのままでいられません。絶対的に許されるからこそ、こんな私を許してくださる仏様のお慈悲に自らの有り様を恥じ、「こうなりたい」という本当の自分の願いに立って歩んでいけるのです。
世間・他者という言い訳に逃げず、自分自身ととことん向き合ってみましょう。
心より懺悔してから
拝読させて頂きました。
私もあなたと同じように多くの方々にとても迷惑をかけて生きてきました。
今でも沢山の方々を傷つけたことや被害を与えたことを心から後悔しています。
本当に多くの罪を作って生きたと思っています。
ですからあなたのお気持ちを心からお察し申し上げます。
人は生きていく間自分の愚かな思いや言動によって多くのものを傷つけたり被害を与えたりしてしまいます。その様な愚かな存在であることが私達人間でもあります。
どんな方でもあまたの生命を頂き施され育てられて成長していきます。
ですからそのような愚かな儚い存在であるといことを先ずは自覚することが大切かと思います。そして愚かな思いや行いを心から反省することそして心から懺悔することが大切です。
私は毎朝お仏壇や本堂の仏様に手を合わせて己の愚かさを懺悔させて頂きお勤めさせて頂きます。
ウィキペディアにも記載されていますが
懺悔偈(さんげげ)というお経です。
我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)・・・我れ昔より造る所のもろもろの悪業は
皆由無始貪瞋癡(かいゆうむしとんじんち)・・・皆昔からの貪り怒りおろかさによる
従身語意之所生(じゅうしんごいししょしょう)・・・身と言葉と心より生ずる所なり
一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)・・・一切私は皆懺悔致します
ととなえて己の犯した罪や愚かな思いや行いを仏様に聞いて頂き懺悔します。
そして素直な気持ちで仏様に向き合いこのような愚かな思いや言葉や行いをしないようにと心掛けて一日が始まります。
あなたにもどうか己の愚かな思いや言葉や行いを深く反省しそして仏様に懺悔して頂き、その上でこれからその様な愚かな思いや行いをしないようにと心掛けて頂きたいと切に願います。
仏様はいつ如何なる時でも私達を見守り続けてくださいます。そして私達を正しき道にお導きなさってくださいます。
あなたが素直なお気持ちでどうかあなたの未来に向かって心を清く生きて頂きたいと切に願います。
愚かな儚い存在でありますが必ず仏様の光はあなたにも皆さんにも差し込みます。
あなたがこれからの未来皆さんと素直なお気持ちで助け合い尊重し合い共に仲良く健やかに成長なさっていかれます様心からお祈りさせて頂きます。
どうかがんばってくださいね!あなたを心から応援していますね!
質問者からのお礼
kousyo Kuuyo Azuma 先生
ありがとうございます。なんといいますか、お坊さん方にもそういった悩みがあるのだと思うと、少し気が楽になりました。そして、それを懺悔し、お務めをされている先生に深く感銘をうけました。
人間が愚かで儚く、それでも全ての人に仏様の光が降り注ぐ、という旨のお言葉に、非常に救われます。私も幸せになってもいいのだ、という気持ちが、読みながら少しずつ湧いてきました。今すぐに、とはなかなか難しいかもしれませんが、これまでのことを懺悔しながら、前向きに歩んでいこうと思います。
お力になってくださって本当にありがとうございました。
吉武文法 先生
ありがとうございます。後悔と反省の違いに今改めて気付き、感銘を受けております。私は確かに、自分の保身のことばかりを考えていたように思います。私が本当になりたい自分(きっと、これまでのような行いをしないよう、前向きに努められる自分だと思っています)になれるように、自分自身のために変わりたいと思います。
仏様は変わらなくても良い、とおっしゃるのですね。知りませんでした。そして、絶対的な許しを得ている前で自身を恥じ、律して生きていらっしゃる先生方に、本当に尊敬の念を抱きます。私もそのように生きることができるでしょうか。少し怖い気持ちもありますが、私も、他者を言い訳にせず、前向きに生きていこうと思います。
本当にありがとうございました。