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忙しいのでしょうか?

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有り難し有り難し 20

七月に幼稚園の時両思いだった
男の子と18年ぶりに再会しました
【過去スレあり】

先日 良かったらまたご飯でも行きたいと
LINEしました

既読ついたのですが返事なし

どうしたら良いですか?

嫌われたのでしょうか?

それとも忙しいのでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

気長に待ちましょう

…「既読」。

(´-ω-`)
…返事が来ないなー
…ひょっとしたら私の事嫌なのかなー
…ひょっとしたら迷惑だったかなー
…悪く思われてないかなー
…断られちゃうかなー

こういう、思いを重ねる事を仏教では、迷いと言います。
事実ではなく、自分の頭の中で思い起こされたものだからです。
まだ未確認の内に、自分の妄想をそこに運ぶからです。
ショコラさんは、いつもそこで迷っておられます。
今回からなるべくそのように考えるのを止める為の修行にしてみてください。
そこに私の思いが介入される前の姿を確認するのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

悶々とし続ける

のが宜しいと思います。「あー、私はまた悶々としてるなぁ」と言いながら。
「私は、こういう質問をして、"どうしたらいいですか?"と、他人に意見を求める言葉を発する人間なんだなぁ」と。
私は男ですので、ついつい何か問題の解決をしたくなるのです。でも女性は、往々にしてそうではありませんね。その辺の違和感・傾向の違いは感じておいてください。

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有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ