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石階段や石垣が汚れているのは気にならないでしょうか

回答数回答 3
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初めて質問させて頂きます。
よく仕事の関係(下請け)もあり寺院に行かせて頂きます。
直接の仕事ではないで御住職に聞きづらいのですが、
石階段や石垣が黒ずんでいますが、自然の摂理なのでそのままがいいのでしょうか?
石屋ということもあり、
「石は地球の遺産。いつまでも綺麗、輝いてほしい」と思っておりますが、実際のお考えを知りたいと思います。

例:「仏教の教えに〇〇がある」    など

確かに、コケ等が生えてたりすると歴史や風格が出ているとも思えますが。
宜しくお願い致します。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

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さて、文字から目を離して、今お持ちのネットに接続している機器の画面や裏側をご覧ください。
汚れとやらがあってもあなたは気になっていなかったはずです。
だれがそれを汚れと認定したのでしょう。
いつそれが汚れと認知されたのでしょうか。
元々、そこにシミや付着物がついていても、それすら気にならない、拾い上げられのなかった時があるはずです。
今度は「汚れ」探しアンテナを張り巡らしてあたりの「汚れ」と感じるところを探してみましょう。
すると「汚れ」と認定されるところがあったり、このくらいはどうでもいいというものもある。
ここでお気づきいただきたいのは、あなたがそのものに対して「見解」を立てなければ、どんなものであってもきれいも汚いもない涅槃寂静なる姿を全うしているのです。
家の中に土や砂があれば汚れでしょうか。
砂丘は汚れの山でしょうか?
だれが、いつ、それを「汚れ」という見解を付着させているのでしょうか。
本当の清浄、清浄心、仏心とは、人間の価値観によるきれい汚いという世界ではないのです。
きれい汚いという思いをはせるのはそのものに対する「感・観」です。
実際の「世界」と個人の「世界❝観❞」とは異なります。
自分の❝観❞を外して、ものに触れてみてください。
こんどお寺や神社に行ったときに「ああ、もともと人間の定めるところのきれいも汚いもなかった」という寂静な世界に出会うことができるでしょう。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

こんにちは。

 石段が汚かったですか?ごめんなさいね。石を専門に扱う方からしたら気になる事ですよね。
 私の寺にも、石でできた工作物があります。できる限りの手入れはしていますが、どうしても石や目地からカルシウムなのか鉄分なのか私には分かりませんが何らかの成分ががでてきて、素人では落とすことができない汚れがでてきます。業者さんに頼めばいいのですが、もちろんお金のかかる事ですし、きれいにしてもまた同じような汚れが出てきてしまいます。ですので私の寺ではそのままにしています。苔などが生えてきてくれると風情が出て良いんですけどね。

 もし、そのお寺の石段を、きれいにしたい、きれいであってほしいと思っていらっしゃるなら、是非ご住職に申し出て、ボランティアでお掃除して差し上げたらいかがでしょう?立派な「布施行」です。ご住職にもお檀家さまからもきっと喜ばれますよ。

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・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoha回答僧登録。 好きな言葉は「和顔愛語」。和やかな顔と思いやりの言葉という意味です。曹洞宗開祖道元禅師は、愛語には世界を一変させる力があると仰っています。回答には厳しい言葉を入れることもありますが、相手を思いやる気持ちがあってこその言葉と捉え、受け止めていただきたいです。 ※質問の答えについて、話の大筋は変えませんが、投稿してから誤字脱字を直したり、内容をよりわかりやすくするため、若干加筆修正することがあります。ご了承ください。 ※「お礼」は必ず拝読していますが、それに対して回答の追記は原則しないことにしています。ご了承ください。 ・回答する件数は減っていますが、ほぼ全ての質問とつぶやきに目を通しています。
話すのが苦手なので、原則不可とさせていただいています。どうしても!という場合は運営さんに問い合わせてみてね。

素直にごめんなさい。

すいませんね。
石垣であろうと堂内の荘厳であろうと、汚いままなら和尚の名説法も台無しですね。

お寺や僧侶に抱く世間のイメージに応えられなくてゴメンナサイ。

私が思うに、意味はなくても理由はあるのかもしれません。

境内の掃除より他のことに時間がとられた。
苔の雰囲気を育てている最中。
(これについては、経典というより文化的な側面が強いように思えます)
高齢化、護持者の減少。
田舎の家でも、世帯主の高齢化で庭の手入れもできなくなってきた。
庭師に頼むお金も高く感じる。

汚いよりキレイに越したことはないです。
お盆に墓石を磨きに来る人たちもいるのに、すいませんでした。

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hasunohaに出会えた私は幸せ者です。カニとおろし蕎麦と水ようかんが美味しい地方の町のお寺にいます。人混みは苦手、都会のイルミネーションやサイネージはまぶしすぎる。だけど、ここhasunohaでの対話があるから孤独じゃない。ありがとう。
『ここから先のお相談はあなた様が自由にしていい時間です。事前のメールでは書ききれなかったことの補足、その時から少し気持ちの変化があったこと、あるいは言葉が浮かんでくるまで頭の中の思考に委ねるなど、誰からも束縛されないあなた様の時間です。では、お話しください』 という導入から個別の相談は始めています。 社会福祉士、公認心理師として社会では働いてます。事業や組織という役割を背負うと言えないこともあるけど、仏教を背負うと立場も変わります。正解よりあいづち(そうだね)が欲しいときでも大丈夫です。 ご利用ください。

質問者からのお礼

ありがとうございました。
「汚れ」という表現に問題がありました。「黒コケ」や「藻」という表現方法がよかったのかもしれません。「汚れ」=「汚い」イメージになってしましました。申し訳ありません。
私自身は、綺麗であっても風格が入っていても好きです。 
ただ寺院によっては、御政の際に手を入れているところもありましたので、どうなんだろうと思いました。
御住職の生のお言葉が聞けてありがとうございました。
檀家ではないお寺でしたので「お布施」という考えはありませんでしたが、「布施行」としてならば檀家でなくても自身行となります。
色々と御説法ありがとうございました。

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