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若い頃のワクワクをもう一度

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数か月前こちらのサイトで色々ご相談させていただいたものです。

お坊様からのご回答を参考に以前話していたいくつかの悩みに対して行動できているかなと自分では思っております。

なのでわりと今は自分のやりたいと思う事も自由にできているし行動もしているのでいいはずなんですが、楽しいという感情と同時に虚しいという感情も同時に湧き上がってくるのです。

若い頃やってこなかった事を今になって挑戦して昔の自分より今の自分の方が若者っぽいのですが、あの頃のとてつもないワクワク感みたいなものが無いんです。

年を取るというのは感受性がどんどん無くなっていってしまうものなのでしょうか?

色んな事に挑戦すればするほどこれをもっと若い頃にやっておけばどれだけ楽しかっただろうかと物凄い後悔をしてしまいます。

何をやっても極論をいうと退屈で若い頃に戻りたいです。

しかしそんな事はできないので興味の対象が霊界やVRなど将来燃え上がるようなワクワクを感じる可能性があるものにいってしまっています。

退屈で何もない事が幸せという人は多いですが、僕はどうしてもそうは思いません。どうしたらこの無間地獄から抜け出せるでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

思い込み地獄

ものを見るにも聞くにも、この回答を読むにも見るにも、
「先立てている」ものがあるでしょう。
今まで体験、経験したことの情報やデータ、知識をすぐに運んでくる。
脳内情報をそこに高速割り込みさせているのです。
だから実物をダイレクトに体感することができず、自分の脳内データ上のものばかりを相手にしてしまう。ある種ハスに構えているのではないでしょうか。
ものに本当に出会うということは、さっきであったこと、出会った人であっても、いま新たに出会うことです。自分の評論評価、思いは実物をダイレクトに実感することを阻害します。
北斗の拳ですら読む年齢によって角度が変わるはずです。
本当に裸王になりたければ、何も持たないことです。
今まで蓄えたデータなしにそのものに出会う。
平たく言えば、何をするにもそこに入らぬスネ夫めいたコメントや知識や雑学やらデータを交えないで味わうことです。
人間の思考は早いです。
それよりも速いのは感受、感覚、知覚です。
その感覚を見逃しているのがあなたです。
思考の強制割り込みをする。そういう習慣がついているのでしょう。
坐禅はそれを除去します。
ダイレクト事実を自己想念なしに直接体感する。
思考なんぞは所詮二の次なのです。
二の次である思考をあなたの脳内の王座に座らせているから脳内政治が乱れる。
王座に座らせるべきは思考・知識・情報ではなく、事実なのです。
「あ!」
いま、ここで「あ!」に出会う。
「あ!」なんて言葉は誰でも知っている。
だから曇る。
「あ!」
私がここで申し上げている「あ!」はそういうものを意味していない。
実物に出会うことです。
役立つと思っていた知識がかえって何を見るにも聞くにも役立たずにさせてしまっているのです。
知覚に自己の想念は付随しません。
付随させるのが自分のシロートさんです。
自分の玄人は思考を付随させない。
あなたはまだまだやるべきことがある。
「何をやったって退屈だ」と思ってしまう、そのネチネチした思考なしに物事を味わうということを当たらに始めてみれば一挙両得ではないでしょうか。
自身の高速割り込み思考を根絶するべし。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下 覚元様返信ありがとうございます。

なるほど知識がある分色眼鏡で知らず知らずのうちに世界を見てしまっていた気がします。

子供の頃は比べるものが何も無いから事象そのものを感じる事しかできないのでその事で多くの感動があったのかもしれませんね。

人と比べる事は意味が無いと思っていたのですが、過去の自分と比べる事も実は意味の無い事なのかもしれないとお坊様の回答から感じました。

これからは相対的な喜びではなく絶対的な喜びを追求するような生き方をしていこうと思います!

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ