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両親

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有り難し有り難し 18

初めまして
実の親との事なのですが少し愚痴っぽくなってしまうかもしれませんが書かせて下さい。

私は幼少期に火遊びをしたら手をコンロで炙られたり、言うことを聞かないと火のついている線香を当てられたり、冬に裸で外に出されたり…ほかにもいくつかされていました。(父母共にから)
当時はそれだけ自分がいけないことをしたのだと解釈していたのですが自分が親になり普通じゃないのではないかと思うようになりました。

少し話は変わるのですが祖父が私の母親と喧嘩をしたまま死に別れてしまい母は形見を大事にしています。
それを見て形見を大事にするのではなく生きている時にその人自身をもっと大事にすればいいのではと思いました。

なので私も今実家に行くのがすごく苦痛なのですがいずれは死に別れ2度と会えなくなってしまう日が来ると思うと、、、
ですがなかなかされたことに納得できません。

今も約束していた事をお願いしたら「都合が変わったからその約束はなかったことに」と言われ、こちらも都合が変わってどうしてもその約束を守ってもらわないと住む場所さえなくなってしまうと話しても、「そちらの都合は知らない、それを想定してなかったお前が悪い一切助けることはしない」と言われています。
なぜこうも自分が娘にしてあげたいことと自分がされてきたことされていることが違うのか、自分がおかしいのかと悩んでいます。

自分の親との付き合いかたが全然わかりません。
どうしたら良いでしょうか?

混乱していて文がまとまらずわかりにくくすみません。
よろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

親とあなたは別人 別人格 別存在 

親御さんとは別存在ながらも遺伝子や共有空間・共有時間はあったはずです。
共有空間・共有時間はあったはずですが「別存在」なのです。
完全に同じ存在であればご本人様ですから喧嘩もしません。一体です。
ですが、どんなに仲の良い人間関係であったとしても「別存在」なのです。
このことをよーく考察して、自分の中の家族に「従順しなければならない」という意識から一度自由になってみましょう。それも出家です。自分のしばられ意識からの解放です。
親孝行はボランティアではなく感応道交。
親の未熟は人間が許すのではなく自然界の生命として赦すことで人間のルールの押しつけがなくなります。
相手を笑わせたいと思うのならば、自分がまず笑うことです。
相手を幸せにしようと思うならば自分が幸せであることからです。
親の子供に対する姿勢というものはよほどの事でもない限り変わることはありません。
ですから、こちら側が親に対する高い理想を求めずに接すればよいのです。
自己を安らかにしようと思わば自己の自分・自我・エゴのエネルギーを重宝せず、生命本来のやさしさ柔らかさを引き出すことです。
最近、他宗派の坊さんがうちに電話してからんでくるのですが、実に攻撃的でやっていることが仏教的でも宗教的でもない姿勢の方がおられました。
誰かを責めてくるという行為は誰も幸せになれない姿勢であると思います。
では、どうあればよいかと言えば「わたくし」をしないことなのです。
親子や家族、他者に関してもこの姿勢を学んでみてください。
自分が親をはじめ他者に対して怒りや憎しみ、もやもやしたものを思いおこせば思い起こすほどに自爆&自縛するのです。
人生は出会ったことや思い起こされたことに対して、その時の反応の仕方によって変わっていくものです。
全部自分がやっていることです。
自分が無自覚のうちに多存在に対してアウトプットしていることが無色無形の芳香となって自分に返ってくるということがあります。
その芳香は思い方によって、病みにもなり、よき心がけであれば自分を利益するほどの良き香となります。
あなた自身がご家族とのかかわりの、他者とのかかわりの中でよき「かほり(芳香)」がにじみ出るように態度することが良いと思います。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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