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無私無欲になるには

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ずっと忙しく、心身とも休まる暇がありません。
最近ふと考えました。
いちいち仕事や不安に疲れるのは「~したい」「~は嫌だ」という自分の欲があるからではないかと。

欲がなければ、休みたい、この仕事はきつくて嫌だな、などと思わなくなるのではないか。

こうした欲を捨てるにはどのようにすれば良いでしょうか。

大変曖昧な質問で申し訳ありませんがお知恵をいただけたら幸いです。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

延焼させなければ火は自然と燃えつきる

人間ですから感じなくなるというのは現実的ではありません。悟りを開いたお釈迦さまでも今際の際には激しい腹痛の中でイライラされ、思わず「アーナンダ(弟子の名前)!うるさいぞ!」と叱りつけました。仏教は植物人間を目指す道ではありません。「〜したい」「〜は嫌だ」という感覚そのものを嫌えば、かえって理想と違う自分に疲れるようになります。

人の心にはパッと思いつく第一次的な心と、そこからドンドン発展させていく第二次的な心があります。「あっ、ウンコ踏んだ」と認識する心が第一次的な心。その後に「汚ねぇなぁ」→「あ〜もう最悪」→「みんなドン引きするだろうなぁ…」→「もう今日の俺は終わった…」→「朝の占いが悪かったせいだ」というようにドンドン考えを発展させていく心が第二次的な心です。

この第二次的な心で考えを次々に展開させていくことを止めましょう。それが仏教流安心の秘訣です。

仕事したくなければしたくないで良いんです。私だって仕事したくありません。それは人類普遍の真理です。古今東西・老若男女みんな仕事したくない。そんな自分を嫌わず、追いかけず、ただ認識して放っておくんです。1を1のまま眺めて、2や3に膨らませないのです。そんな心の習慣をつけましょう。そうすればグッと楽になるでしょう。

あと、現実問題としてブラックすぎれば当然心もブラックになります。環境ややり方を調えることも大切です。体調や生活習慣、姿勢や食事を調えることも大切です。道元禅師も「身体の調子を整えると心も連動して良くなると、医法でもよく言われます。仏教徒ならばなおのこと、仏さまやお祖師さまのように慎しみ深い生活をし、身体をよく調えれば、心も連動して調うものです。」と言っています。第一次的な心まで調えようとすると心の習慣の問題となりますので、このようなアプローチでそれなりの期間がかかります。
考え方1つで何事も辛抱できるなら誰も出家修行なんかしません。

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おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouTuber「仏教・お寺ch 大慈」。 【現代日本仏教最大の課題のひとつはコミュニケーション不足】をミッションに10年以上、インターネット上で情報発信をしています。 YouTubeでは仏教の教えや読経だけでなく、お寺の真相やお坊さんの生活が分かる動画を配信しています。(リンクは↓のURL)

今、あなたが無私無欲。

人間の初めの状態が無私無欲です。
今、高級な食事も欲していない。高級車も欲していない。今よりほかの何かを欲していない踏み出しZEROの状態がある。
ものを見た瞬間、
1他のものをそこに求めていない状態と、
2頭の中の世界に移行して「ああ、もっと別のあれがほしい」ということをやり始める世界とがあります。
1の世界は目前のものをそのまま頂いている様子です。
思考、欲にわたる前のそのまま感受状態。
2の世界は頭の中で別のものを求め始めた世界です。
その起動、立ち上がりはSSDのパソコンのように高速ですが、事実を見た直後、頭の中でやり始めてストーリー化する自分があるのです。
その30センチ手前を見てみましょう。
その5秒前を見てみましょう。
その50Hz低いところを見てみましょう。
その3℃低いところを見てみましょう。
欲の👣足をふみだす一歩前。
そこに答えがあります。
人間の元々の本来性が無私無欲であって、これから修行して無私無欲になるのではありません。欲が多い人は踏み出しが多すぎた人なのです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

無私無欲になるのではなく、無私無欲の私を知るのです

無私無欲。
多分あなたが思うワタクシは、”思い、考える”ワタクシ、自我のことでしょう。そちらを私だと思い追い求めると、無私であることを見落とすことになります。

ある人がじっと私を見ている。”見ているだけ”なのにそのあと「なんだあいつ、ジロジロ見て、キモいなあ、ムカつく!!」なんて取り扱うのは”思い”の方、自我の働きです。事実は”見ているだけ”。その事実に触れただけで終わっていたら、無私無欲でいられるのです。しかし、その後の考えや思いを掴み、後追いをしていくと、今の様子から離れ、事実では無い世界に行ってしまいます。

本来人は生まれながらに無私です。そして思いを追い求めなければ無欲であるのです。
イマココ事実の様子に生きてください。

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おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

質問者からのお礼

大慈 様
丹下 様
邦元 様

ご助言ありがとうございました。
自分で勝手にあるがままを膨らまさないこと、と理解しました。
あるがままを受けとるように努めてみます。

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