hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

彼女の事をさっぱり忘れたいです

回答数回答 2
有り難し有り難し 21

私には彼女がいました。正直、今でも好きです。
しかし、現在は音信不通になるくらい嫌われています。

現在は、私です。少し前に、精神疾患を患いまして、夜な夜な理由もなく不安になり彼女に連絡をしたり、返信が返ってこなかったら催促したり・・・と、こんな私に付き合えきれないと、着信拒否もされメールアドレスも変えられました。

彼女と復縁は不可能だと思います。正直、私が彼女の立場なら、相当気持ちが悪いと思います。
でも、このままでは将来、彼女を傷つけてしまう気がします。(犯罪的な意味で)
なので、そうなる前に彼女の事をわすれたいのですが、部署は違えど職場が同じなので彼女の事を目でおってしまいなかなか忘れられません。
どうすればよいでしょうか。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたが見ているのは過去の彼女です

未練というのは、過去の記憶に、様々な思いを付け足した、煩悩です。

現在の彼女はあなたを愛していない。それをまず本当に理解すべきです。
過去にあなたのことを愛していたのでしょうが、それも思い出。現実ではありません。

いまは、その元彼女のことばかり考えているのでしょうが、考えでなく現実には多くの女性がいます。

目はきちんと現実を見ています。心に騙されず、多くの女性と知り合い次の恋に向けてスタートすることが何より大切なことでしょう。今のあなたは恋に恋して盲目になっているだけです。

{{count}}
有り難し
おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

相手にしているのは彼女ではなく彼女への未練という心情

哀しみに浸る、ということがあります。
その本質を見極めろと、教えてくれているのです。
それは、彼女への想い。
これは、深い意味で、彼女への想いであって、彼女ではないということをよくよく見極めて頂きたいと思います。
愛する人を持つと、自分の中に取り込みが行われます。
その人に対する、さまざまな微細な心情が現われます。
ですが、それを起こしているのは、自分の中でしょう。
相手に対する想いといっても、それは自分の内なる想いであることを見破ってください。
私も、昔は、相手に対する気持ちは「相手」であると錯覚していました。
ですが、それは、どこまでいっても自分のインナー作用なのです。
リアルタイムの本人様ではありません。
だからこそ、あなたには付き合っていられない、と言われてしまっても仕方ありません。
実際には、その方との縁は薄まりましたから、あとは未練の正体が自分の思いにすぎないことであって、彼女とは無縁のものであることをよく見極めてください。
そうすれば、新しい恋を始められるでしょう。
今度の彼女とは、ちゃんとリアルタイムの彼女に出会ってください。
自分の中の彼女へのイメージは妄想、マボロシ、セルフのイメージでしかありません。
からく感じたかもしれませんが、失恋の未成仏な思いを断ち切るには、自分を知ることが一番良いのです。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
私が思う彼女は、私のイメージが作り出した幻想で今、現実に存在する彼女ではないのですね。
分かっていても、今回のように自分以外の人にハッキリ言ってもらえると現実として受け止めやすいです。

本当にありがとうございました。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ