hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

謝罪されたら許せるか分かりません

回答数回答 1
有り難し有り難し 22

二年前に他人だけど他人じゃない微妙な関係の人間に、自分勝手な理由で私に暴力ふるってきました。

私にも悪い所あったかもしれない。
でも自分の生活がうまくいかない、自分は精神病もち、虐待されてたから等でそこは関係ないだろの理由で暴行うけるのは意味わからないです。

最近、この事に関して謝罪しないといけないとそいつが言ってると他の方から聞きました。

一言謝ってくれたら私はスッキリするのに!許すのに!とお酒で酔った時に話してました。

だけど、本当に謝罪されたら許すのか。
顔を見て自分は逃げ出さないのか。
謝ったら許されると思ってるのか!と反対に怒らないか。

まだその会う予定すらないのに不安になっています。二年たったのに未だに思い出してはイライラしてる自分がいます。

もう終わった事なんだからと言われますが、自分の中では終わってないです。もし暴力ふるってきた人間が謝罪してきたら、絶対に許さないといけませんか。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

そもそも許すとは何でしょう

人間が人間をさばく。
相手を裁くことで自分が苦しい。
良し悪しのジャッジは苦しみになります。
実際の生活の上では自分が許そうが許したくないと思っていようが、そのことがもう終わりはててしまっているゆえに、人間のいうところの許す・許さないということを「超えた様子」があるというところに焦点を当ててみてください。

今も、相手を許す・許さないを離れて、この文字をご覧になられている。さっきまでも無心にご飯を食べていた時があったはずです。
ポイントは「あなたが許す・許さない」は、あなただけが気にされていることでしかなくて、実際の世界においてはさほど影響力を持たないということを知っておくとよいでしょう。
所詮、人間のやることです。
もちろん、相手の謝罪は、その謝罪が真実であるかどうかは大切です。
この世の罪は「謝ればOK」ならば、第三者に「ごめんなさい」と書かせた手紙で全てが許される。そんなことがまかり通るでしょうか。
謝罪とは相手が心底反省して、一生のその反省の姿勢が覆されることのない、自我を捨て切った謝罪の姿勢でなければ、真実の謝罪ではなくただのパフォーマンスにすぎません。
もし、あなたがあなた自身の人生をより豊かなものにしたいのであれば、そういう貸し借りや、損得、善悪、怒りを生み出すような相手とは完全に縁を切ることです。
そういうことが思い起こされたとしても、いたずらに心の老化が進んだり、清らかな人間性が損なわれてドロドロした心に染まる以外に何もいいことはありません。
相手を憐れみ、人間というものの不完全さをよく見極め、相手に高い人間性を期待せず、変わらない以上は何も相手に要求せず、ただ自身が今日、最高最上に安楽に生きられる道を選択されることをお勧めいたします。
それがあなたとあなたの心の健全さのためです。
物事や他人、自分の思いを「わたくしすること」。
これが人間の苦しみの根幹です。
どうにもならんことを、とやかく問題にして、神仏でもスーパーマンでも変えられない、今更変わり様のないことを、何とかしようとしても変わらないことを問題にされているのであれば、それはあなた自身としても「手放す」ことが大事です。
近づいて触れればやけどするのが火炎です。
火炎のそばに身を処しておられる自身の身の処し方も改めていく必要があると思います。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お返事ありがとうございます。

こうなってしまった事は、もう変わらないんだからこの事に関して忘れるというか。
こんな事もあったーで思うことにします。

ずーっと悩んでたりしてて、
自分の時間を無駄にしていました。

この事は手放して、自分の人生を楽しく生きていきたいと思います。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ