SNSに振り回される現代人について、どのようにお考えですか?
私もそうなのですが、SNSに振り回されてしまう人は少なからずいます。
他者から「いいね」という承認を得ることに快楽を感じ、周囲と比べて優越感に浸ったり、自信をなくして落ち込んだりします。
傍から見ていると滑稽に見えるかもしれませんが、本人は無自覚のうちにSNSで「いいね」を貰うことが生活の中心になってしまうのです。
インターネットが普及し、スマートフォンでどこでもネットができるようになり、便利になった反面、こうした側面はインターネットがもたらした害だと思うのですが、いかがでしょうか。
今まで生きてきて、つらいこともありました。 でも「つらい」と繰り返すばかりでは状況は好転しないようなので、ちょっとずつでも楽しいことを考えたいところ。 前を向いて楽しく生きていきたいです。
自信を持ちたい、漫画家になる夢を諦めきれない
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
メタボ
楽しく生きたいさん。
ご質問読ませて頂きました。
承認欲求。
というやつですよね。
SNSの発達した現代に限ったことでなく
時代に関係なく人はこいつに悩まされているのでしょうね。
愛されたい、わかり合いたい、認めてほしい。
これらはすべて承認欲求ですよね。
誰しもが持っているものです。
でもインターネットの誕生で
いつでも、どこでも、誰とでも
繋がれるようになって
承認欲求はどんどん大きくなってメタボになっているんでしょうね。
いつでも、どこでも、誰でも
ハンバーガーや、牛丼が食べられる時代に伴い生活習慣病や肥満が問題になるのと同じことでしょう。
いつまでもハンバーガーや牛丼を思い思いのままに食べ続けていては太り続けるばかり。
セーブしなければいけませんよね。
私はライン以外のSNSをしていません。
なぜなら『いいね!』を欲しがる自分が目に見えるからです。
SNS依存度によるのでしょうが、
思い切って今までやっていたSNSをやめてみるとか
スマホばかりついつい触ってしまう人は
ガラケーに戻してみるとか
個々が少しでも自分でメタボ欲求を自覚して、改善したいと思い、距離を置くしかないのでしょうね。
hasunohaのようにインターネットは素晴らしい働きもします。
インターネットを扱う個人個人が
生活習慣を考えるように
インターネット習慣も考えていかなければならないのでしょうね。
SNSで無我ろう
オシャレで美味しいスイーツをアップしました。それはスイーツがイイねされているのであって、私がイイねではないと知覚しましょう。
旅行に行って自撮りをアップしました。それはスポットがイイねされているのであって、私がイイねではないと知覚しましょう。
アクロバティックなアクションや面白いポーズをしてアップしました。それはアクションやポーズがイイねされているのであって、私という人がイイねされているのではないと知覚しましょう。
人が納得する哲学や今日使える情報をアップしました。それは読み手の解釈が共感しているだけであって、私がイイねなのではないと知りましょう。
hasunohaで回答をしているとイイねならぬ有り難しをいただけますが、私がイイねをいただいているわけではありません。私がお取り次ぎをしたお釈迦さまやお祖師さまの教えがイイねされているだけです。
こんな心掛けが肝要です。仏教の内観の応用です。
内観とはざっくり言うとこんな感じです。
私は眼をコントロールできません。まぶたは閉じれますが、電車の向かいの席のキレイなお姉ちゃんだけ見て隣のオッチャンは見ないということは出来ません。眼は眼で私の意志と関係なく独立して働いています。だから眼は私ではなく眼であると知覚します。
私は耳をコントロールできません。昔、先輩和尚さんのイビキが凄く、イビキのリズムに合わせて「ナントカ!………ナントカ!………ナントカ!」って延々と叱られる夢を見ましたが、イビキが嫌だからといって聞かないことは出来ません。耳は耳で私の意志と関係なく独立して働いています。だから耳は私ではなく耳であると知覚します。
鼻も舌も皮膚の触覚も、それらを脳で受信し認知する意識も同じです。
そうすると眼耳鼻舌身意のどこにも『私』というものはありません。そう、本来、執着すべき私もイイねされる私もどこにも無いんです。
インターネットとかリアルとか関係ありません。全ての苦は、この『私』という妄想から出発しています。それがお釈迦さまの教えです。
さぁ、あなたはSNSを通じて何と誰をお取り次ぎしますか?そんなご縁の中で他者を活かす生き方が習慣になってくれば、悩みが生じる原因が無くなってしまうでしょう。
楽しく生きたい様
「他者から「いいね」という承認を得ることに快楽を感じ、
周囲と比べて優越感に浸ったり、
自信をなくして落ち込んだりします。」
わたしは存在価値の問題だと思います。
自分自身で自分自身に存在価値を認められれば、
他者からの承認は必要ないと思います。
SNSに振り回されてしまうということは、
自分の価値のありかをどこに求めてよいかわからず、
さまよい歩いているということだと思います。
価値という言葉で表現すれば、
自分に備わっている価値が、
はじめから自分の中に在るということに気付くこと
それがお釈迦様の教えだとわたしは思います。
必要なこと
拝読させて頂きました。
あなたのおっしゃるとおりです。
今は情報の洪水の中で激流に流されて生きています。大きなニュースから個人情報までがありとあらゆる場所や時間で垂れ流されています。まさに不眠不休の状態です。
本来それほど大事なこと以外には情報は必要ありません。しかし人人の興味や関心に合わせて欲望に合わせて手を替え品を替えて垂れ流されていっています。
視聴率から内閣支持率からいいね!まで人の指示を受けることが何においても正義になってしまっています。
この状況はどんどんエスカレートしていくでしょうね。
いつも携帯している端末によってGPSで常に監視されているのと同じですからね。まして自分から自分の状況をアップしているのですから管理する側からすれば何と便利なことかと思います。
ですから人の承認欲求をうまく逆手にとって管理しやすい状況を作り出していると言うことができますね。
ただわかっていてもついついアップしてしまう自己とは逆らえないのかもしれません。
全てが悪いことではないでしょうが、逆に自分にとって本当に必要なものや関係性をもう一度見つめ直すことは折にふれて大切かと思います。
別にSNSが無くても生きていけない訳でもありません、又テレビやラジオやパソコンが無くても生きてはいけるのですからね。
まして携帯電話のスマホも無くても生活できますからね。
あれこれと振り回されていますけれども、もう一度自分の身の回りのこともゆっくりと見つめ直してみて、これからの自分の生き方も何が必要で何が必要でないかお考えなさってくださいね。
質問者からのお礼
大乗さま
ご回答ありがとうございます。
自他問わず、SNSによって膨れ上がった承認欲求に対して不健康なんじゃないかという思いを抱いているので、「メタボ」という喩えは言い得て妙だなぁと感心いたしました。
されど、承認欲求自体は古今東西問わず、人間として当然の欲求なのですね。
だからこそ、いかにコントロールし付き合っていくかが大切というご回答、とても参考になりました。
私の経験談もふまえて申しますと、承認欲求というものは、とても制御し難いものですよね。
大乗さまが「ライン以外のSNSはしていません」と仰ったように、スパッとシャットアウトしてしまうくらいの荒療治も必要なのかな、と感じました。
丁寧にご回答くださり、ありがとうございました。
kousyo Kuuyo Azumaさま
ご回答ありがとうございます。
じっくりと拝見させていただきました。
>自分にとって本当に必要なものや関係性をもう一度見つめ直すことは折にふれて大切かと思います。
仰るとおりですね。
情報が氾濫し、情報の取捨選択がこれまで以上に必要とされる昨今、己にとって必要か否かを長期的な視点で見極めることは難しそうですが、できる限り落ち着ける時間を設けて、じっくりと取り組んでいきたいと思います。
今後、こうした情報の氾濫がエスカレートしていくことで、人々がますます生きにくい時代になりそうですが、なんとか上手な付き合い方を覚えて、また身近な人にもそれを教えてあげられるようになりたいものですね。
法演さま
ご回答ありがとうございます。
>SNSに振り回されてしまうということは、 自分の価値のありかをどこに求めてよいかわからず、 さまよい歩いているということだと思います。
じっくりと考えてみたのですが、仰るとおりでございます。
私も自己に確固たる存在価値を見出せておらず、悩んでいる道中でございます。
自己の存在価値を見失いやすい時代だからこそ、SNSに熱中してしまう人が多いのでしょうね。
己の中に存在価値を見出す。
頭では理解できても、心で理解し腑に落ちるのはなかなか難しいです。
でも、きっとそう簡単なことではないと考え、焦ることなく精進していくことがきっと肝要なのかもしれませんね。
大慈さま
ご回答ありがとうございます。
「内観」という言葉を初めて知りました。
分かりやすい説明をありがとうございます。腑に落ちました。
ただ一方で、「私」への執着を捨てるというのは、とても難しそうだと思いました。
執着すべき「私」など、どこにもないということに納得はしたものの、それでも「私」を捨てるというのはなかなか実践し難そうですね…。
少しずつ、考え方を変えていくのが良いのでしょうか。
他者を活かす生き方を考えるというのは実践できそうなので、まずは、そちらから意識してみたいと思います。