くじけそうな時に支えになる言葉
長くなってしまいますが吐き出させてください。
家を出る18歳まで毎日のように兄から暴言や暴力を受けてきました。 存在意義を否定され続けてきた私は全く自分という存在がないまま大人になりみした。誰にも助けてもらえず辛かった。毎日死にたいと思ってきました。
大人になってからも自由にはなったものの今だけ生きれば人生なんかどうでもいい、明日死んでもいいという考えがずっと続きました。
今は結婚してしまいましたが独身時代は前の質問を始めここには書けないようなことをたくさんしてしまいました。
今思えば本当に浅はかでした。言い訳にしかすぎませんがもう少し自分を持てた人生だったら違う選択ができていたと思います。
今はきっと人並みにいうと幸せなんだと思います。夫に過去を言うつもりはありません。でも毎日過去に犯した過ちが一気に降り注いでしまうのてはないか。という強い不安とやっぱり人生なんてどうでもいいと心の中で思っている自分がいます。そして今の環境を失いたくない、こんなに不安が強くて辛いなら死んでしまいたいと思っている卑怯な分がいます。
でも自分がしてきたことで傷つけてしまった人がいる、夫は私が死んだら悲しむ、私に死ぬ権利すらないと、今できることを、今を向いて過去に傷つけてしまった人たちに心の中での懺悔も兼ねて必死に前を向いて生きているつもりです。
でもそれでも心がくじけてしまって、なんであんなことをしたんだろう、もう死んだ方が楽になるんじゃないか、と思う時があります。
自業自得は重々承知ですが、心がくじけてしまいそうなときに踏ん張れる、支えてくれる言葉を教えてください。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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懺悔(さんげ)すれば救われます
大変つらい、苦しい子ども時代を送られたのですね。
浄土宗の宗祖法然上人がおられた時代、耳四郎という泣く子も黙る大泥棒がいました。
ある日、忍び込んだ屋敷の床下にいたとき、部屋では法然上人のお説教が始まろうとしていたので、床下でじっとしておりました。
どんな悪業をかさねた人でも、そのままでは地獄に落ちるような人であっても、仏はいつでも見守っている。そして、救いの手をさしのべている、という話でした。耳四郎はいたく感動し、思わず床下からはい出て、上人の前にひれ伏してしまいました。
彼は、 「私は幼いころから盗みがやめられず、こんな姿になった。こんな私でも仏は救ってくださるのか」 とたずねました。 「そう、仏の救いのあることを、いつも忘れずお念仏をお唱えしなさい。」 耳四郎は、自分のような者をいとおしむ仏のあることを忘れまいと、心に誓ったのでした。
しかし、習慣とはおそろしいものです。彼の盗みはおさまるどころか、ますます激しくなっていきました。京の町では、かの法然上人まで悪く言われる始末でした。仏を信じさえすれば、どんな悪業をしてもよいというのです。
ある信者は耳四郎が憎くてたまらず、殺してしまうために誘い出しました。その信者は、耳四郎に酒を飲ませ泥酔した耳四郎の目の前で、隠しておいた刀をふりあげました。ところが、彼の目にうつったのは、酔いつぶれた耳四郎ではなく、黄金色にかがやく仏様です。彼は、思わず刀を落としました。気づくと耳四郎が南無阿弥陀仏と祈っている姿でした。耳四郎は涙を流し、つぶやいていました。
「お前がおれを憎むのも当然だ。おれが悪かった。おれは自分の行いが罪だと知って、それでも救いの手をさしのべてくれる仏に一心に祈っていた。けれども生来身についた悪い癖は、どうにもなおせないのだ。どうしたらよいのだろう。おれは、この仏にたよるしかないのだ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
話を聞いた法然上人は、「阿弥陀様は耳四郎はもちろん、耳四郎を殺そうとした信者が罪を犯すことまでもお救いただいた。ありがたいことだ。」と仰いました。
悔い改めることにお気づきになったことで一歩前進し、お念仏をお唱えになることできっと仏様がお救い下さいます。
質問者からのお礼
平井様 ありがとうございました。日々精進ふることでいつかこの悔いは薄れていくのでしょうか。どこまでも自分が救われたいだけですね。