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今の仕事をどこまで我慢すればいいのか分からない

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私は今ショップ店員をしている22歳女です。

今働いている職場は、土日は絶対休めないし、給料は日数出てるのにバイト並みに安いし、遅い時間だし、と色々不満はあったのですが、人間関係が良好で、仕事にやり甲斐を感じていたので、今の職場が好きでした。

ですが、数ヶ月前から二人やめて、代わりの人が一人別の店舗から来たのですが、その人のせいで、モチベーションが上がらないし、売り場の人間関係も最悪です。

その人は色んな店舗をたらい回しにされるような、少し難のある人です。

今まではやる気があって、お客様の笑顔のために接客を頑張ったり勉強したりしていたのですが、今は、出勤してるだけありがたいと思え、ぐらいの気持ちで毎日過ごしています。

お母さんは、どこの職場も一緒よ、と言ってきて、私がさらに愚痴を言っていると、じゃぁやめたら〜?と投げやりになります。
気づいたら、今日は目から自然と波がボロボロ出てました。

こんなことなら、給料安くても土日休めるとこ、人間関係すごく悪くても今より給料貰えるところに就職したいと思うようになりました。

私の忍耐力が足りないだけなのでしょうか…
仕事の嫌なところをどこまで我慢するものなのか、よく分かりません。教えてください。宜しくお願い致します。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

嫌なことを無くすのが仏教

禅の教えでは、嫌なことはもともと初めの時点ではないと説きます。
「ただそのようにある」だけで、そこに自分の主観や好き嫌いが入らないままの姿があるのです。
たとえば、嫌な客がイチャモンを言ってきたとします。
なれた人や、接客のプロは物怖じしません。
その通りのことを、その通りに受け止めて、相手の要望だけを受け止めます。
評価や判断は後回しなのです。
そこに自分を運ぶ5秒前の姿があることをみつけてみましょう。
たとえば、苦手な虫がいたにせよ、それを見る5秒前はなんでもなかったはずです。
細かい世界で申し上げれば、虫を見て即座、直後、0・5秒後に好き嫌いビジョンでものを見ているのです。
ですが、それは厳密には「好き嫌い」「私見」「主観」を瞬時に入れたということなのです。
平気な人はなんでもないということは、それ(自分)↑をさしはさまないということなのです。
坐禅は、事実を事実の通りに眺める姿勢です。
座ることだけが坐禅ではありません。
物事を眺めるのに好き嫌いも、良し悪しも発生しないままに眺めることができるようになるのが坐禅の功徳です。いわゆるありのままにみる、あるがままに受け止めるということですが、理屈ではなしに、理屈以前にものを見るということです。
感情、好き嫌い、良し悪しは、後からやっていることであると覚えておきましょう。
その前に、体感、知覚、感受があるのです。
その時、そこに良し悪しや好き嫌いがないことを感じてみましょう。
人生は長いです。
こういう心を会得するのは価値あることです。
自分の人生の為にも自分の心を見つめて、自分の心の最上の処し方、心の安らぎを会得されることをお勧めします。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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