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自分が自覚無くみんなの足を引っ張ること

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有り難し有り難し 14

初めまして、ニャクターと申します。
私は舞台役者を目指し演劇の専門学校に通っていて、数日後に劇の校内発表があります。

数時間前に班の人の一人から「数ヶ月活動しているのに成長を感じられない(同じところを何度も注意される)、褒められたところも何故そこから発展しようとしないのか、周りを見て行動してないから班のメンバーに迷惑がかかっている、そもそもあなたの演じているのは役ではなくあなた自身だから思考回路が先生のイメージと合わないんだ(あなたには個性があると言われたのですがそれが短所となっています。)」と酷く怒られました。

そこからずっと立ち直れません。学校で泣き、気を落ち着かせるために2時間家で昼寝しましたが、今でも涙が出てしまいます。練習しようとしても何かが喉を詰まったようになり、役の表情をしても頭の中にその自分の表情がはっきり映し出され、自分の顔はなんて醜く使えないんだ、と思い表情を表せなくなってしまいました。

自分の中では完璧に行動しているつもりでした。でも先生の言葉をうまく捉えられていないせいか空回りしてしまいます。なので自分の中では「毎回先生の要望が違うじゃないか!」という状況です。周りを見て行動できないのは何かに必死になると自分のことしか見えなくなってしまうのが原因で、褒められたところを伸ばすのはその褒められたことがベストな方法であり、そのまま活かすべきだと考えてしまいます。

友達は「私は、〇〇さん(私)はやることをきちんとやってると思うけどなぁ」「〇〇さんの演じる役はしっかりその役らしいから大丈夫だよ」と言ってくれてとてもありがたいのですがその言葉にさえも疑心暗鬼になってしまいます。

さらに問題なのは、その怒った子(それと、班の中のその子の友達(その子も怒っています))に対して拒絶反応を起こしてしまうのではないか、という恐怖です。私とその二人は役として関わる部分が多く、これからも公演があると思うので不安でいっぱいです。

このような状況を脱出し最高の本番を迎えたいのですが今の私だと乗り越えられる気がしません。そこでこのような壁が立ちはだかった時の乗り越え方の助言を下されば、と思い質問しました。

悪いのは全て私だと十分承知の上です。今回見えた点を残りベストを尽くし改善しようとは思っているのですが今の自分に自信がありません。回答宜しくお願い致します。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

このH〇〇GEーーーーーー!!!

ニャクターさんはじめまして。マックス・ファクターTNGと申します。
私は質問者に合わせてコロコロ名前が変わったりキャラが変わったりします。
化粧、メイクというものも役割に応じて顔の見せ方が変わります。豊〇議員も謝罪時は申し訳なさそうなメイクになって非常に低姿勢でしたね。さすが名女優さんです。(ちげぇだろがー)人間、自分の固定キャラはありません。そう思うと楽になれます。
ないといえばない。あるといえばある。ないからこそ「このHAGEー!」とか言える。あの絶叫も素晴らしい名演でしたね。(演技じゃねぇよ)
お釈迦様も質問者に応じて対機説法でした。
相手の苦しみ・求めに応じて必要なものを提供するのです。
マックス・ファクターもポーランド人美容師であり、化粧品メーカー名としても知られていますが、CMに起用されるのは時の人、タレントさんや俳優さんが多いです。いつか出演してください。夢は大きく。早速CMの女優になりきって以下のセリフを言ってみましょう。
「…え、えすけぇ、とぅう。」(噛んでる)
はい。自分を捨てて。その時その時の役割を全うする。それが名俳優さんです。
自然な演技って、演技というかその状況になりきっているからこそ不自然感がないですよね。
今、その先生が要求しているのは何か。もうそこですでにドラマ・役割が始まっているのでしょう。そこでネットで検索してもらいたい俳優がいます。千手観音という仏像です。
人間が「無我」になると無限の求めに応じる活動ができることを示した無我・悟りの心を象徴化した像です。遠くから見ると手がオーラにみえます。
私も禅匠井上貫道老師の下で学び「自分の用が無くなり」ました。
人間、固定的な役割だけではなく、無限の役割ができるように元々なっているのです。
そりゃそうです。手があれば掃除も歯磨きもできる、荷物も運べる、ラーメンも食べられる、エビも食べられる、エビカツ、エビチャーハン、あとエビフライだろ、エビの天ぷら、エビのサラダだろ、あと、エビ…(フォレストガンプかい)
エビでさえ、無限のカタチに変化(HENGE)します。
孫悟空も空・無我を悟るゆえ無限に変化します。
ドラゴンボールのウーロンも無限に変化します。
「おのれなき自己の力」は無限大。如意棒です。自分らしさを忘れてしまうことです。
自己の正体が無我だから無限にキャラ変、HENGEできるのです。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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