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旦那の実家について

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有り難し有り難し 16

旦那さんの実家がはなれにあります。
長男夫婦も住んでおり、私の子供とほぼ同い年の子供が2人います。
そして最近3人目を義理のお姉さんが妊娠したと聞いて、私はなんとも言い難い感情になってしまいました。
やはり両親とともに住んでいるわけですから、子育てにも協力があって三人目を産むんだとか、同居だからお金はたくさんあるから産むんだとか、自分達は核家族で協力もあまりしてもらえないし、お金も無く旦那が個人再生したくらいなので、非常に義理のお姉さんを妬んでしまいます。
多分産まれても素直に祝福できません。
人の幸せを妬んでしまう時どうしたらいいのでしょうか?
ちなみに長男夫婦、旦那の両親は私達が家を建てる時に文句を言いまくり、建築会社へ電話するなど嫌がらせをしてきました。
なので私は近くに住むその長男夫婦も旦那の両親も好きではありません。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分を生きるよりほかにありません

人生、人の問題に感じられることのようでも、その思いを起こしている箇所はどこにあるでしょうか。
私はかつて他人様のことで苦しんだことがありますが、問題は相手にあるとばかりおもっていました。
ところが、よーく自分をみつめてみましょう。
今あなたが嫌っているその人たちは目の前に居ません。
目の前にいない人を相手にされているということは、もうあなたの頭の中は思考の世界に旅立ってしまっていて【あなたの頭の中の❝その人❞】を相手にされてしまっている状態なのです。
それは、本当はその実際の「実物の相手ではない、実物(現実)相手ではなかった」という所に目を向けていただきたいと思います。
私たちは、普段いかに本人様のいないところで「ご本人ならざる者」を相手にしていることでしょうか。
ニワトリの前に鏡を置くと、ニワトリは自分の姿をみて敵だと思ってケンカを始めるそうです。
ホントかなって、思いましたが、うちのニワトリが本当にやっていました。
それは実は私たちも同じです。
相手であると思ってきた相手の正体は(よく見極めてください)実は、自分自身の中の相手、自分自身の作り上げた相手へのイメージ・幻(インナー人物)を相手にしてしまっているのです。
インナー人物は文字通り実在しないので目の前にもそこにも❝居んなー人物❞にすぎません。
居ないのですから、どこまで行ってもあなたの頭の中のその人に対する脳内フィクションなのです。寒くなってきました。アタマの中のフィクションにおびえて、ありもしないことに恐れおののくことなく、風邪をひかないようにしてください。フィクション(+Д+)
人間は、実際にそこに存在しないものを「あたかもあるかのごとくに思い誤る」ことで苦しみが生じます。
どこまで行っても、明日、今日今からその人に合わなくちゃいけないとしても、それはどこまで行ってもあなたの頭の中のマイストーリー、ドラマ、実在しないフィクションの「居んな~人物」なのです。ここを明らかにすれば、後は実在するのは世界にたった一人のその実物のご本人さまだけですから、安心して生活を送ることができるはずです。
分かるまで読んでみてください。
分かったかどうかの最後に実験してみましょう。
「それでは、お待たせいたしました。
ご本人様の登場です!!!後ろをご覧ください!」(゜Д゜;) 👻
❝居んな~。❞

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

忙しい中ありがとうございます。
居んなー人物…本当にそうですね。
自分の中に作られた人物なら存在しませんもんね。
そう考えてみます!!
ありがとうございます( ・ᴗ・ )

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