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早口の改善について

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私は社会人で接客業をしているのですが、自分の早口が癖で大変困っています。

例えば、商品説明をしなければいけないときは「これをこれを言わないと!」と思い、つい早口でさっと話してしまい、「えっ?なんですか?」と聞き返されることも多々あります。

本来はあわせて営業までしないといけないのですが、そういった人に伝えるという点で苦手意識があるため、お客様との会話までつながら
ない、できないというのが現状です。

自分のなかで早口になることの原因としては、
まず腹式呼吸ができていないため、呼吸が浅くなっている。学生時代に考え過ぎなどが原因で人との関わりを避けていたため、対人関係での緊張。自分本位で会話をしている。とのことがあるのかなと思っています。

治そうと気をつけているのですが、良いイメージもないためなかなかうまくいかない現状です。
こんな私に早口を治すためのアドバイスをいただけませんでしょうか?お願いします!


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

音声外来

おはようございます。

仕事に影響が出るのを防ぐ手立てとして、早口をカバーする手段としては
事前に伝えることをイメージしておいて、声だけに頼らず、図や書いた文字で補足するという選択肢もあります。

また、早口の改善として僕が法話の練習でやったことは、何文字を何秒で話す。録音して聞く。例えば「今日は、いい天気」 10文字を2秒、5秒、10秒、それぞれの長さで言ってみる。
時間の長さによって間に違いがあるって感覚に気づく。

録音して聞くことを繰り返すことで,「言った」と「届いた・伝わった」の間にあるギャップが小さくなってきます。
録音した自分の声を聞くのは、抵抗あるかもしれないです。僕も自分の声は好きじゃないです。けど、話す声を自分で聞くときは、口から出た言葉が外から自分の耳に入ってくるのではなく、アゴや頬の骨の振動が耳に伝わるから、耳への伝わり方が違うようです。
自分が思う自分の声と、他の人が聞こえる自分の声は違っていて、それが録音の声とのギャップになるようです。

これは、仏教というより体のことなので、心がけや気の持ちようだけに解決を求めるのではなく、
医療的な部分も悩みの解決に活用できるといいなと思います。
ネットで見たところ、熊本にも耳鼻咽喉科で音声外来の診察を行っているところがあるようですね。
医療でどこまでのことができるかわかりませんが、診察による早口の医療的な見解と言語聴覚士さんのトレーニングが可能なら、現状の改善につながるかもしれないです。

参考になる部分がありましたらご活用ください。

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有り難し
おきもち

hasunohaに出会えた私は幸せ者です。カニとおろし蕎麦と水ようかんが美味しい地方の町のお寺にいます。人混みは苦手、都会のイルミネーションやサイネージはまぶしすぎる。だけど、ここhasunohaでの対話があるから孤独じゃない。ありがとう。
社会福祉士、公認心理師として社会では働いてます。事業や組織を背負うと言えないこともあるけど、仏教を背負うと語る内容も変わります。悩みがなくても話してみたいときは相談ください

音程keyを変える 自分を観ながら話す

いつも、お客様としゃべっている音が、ソだとしたら、ミに音程を下げてしゃべってみましょう。
次に、シに上げてしゃべってみましょう。
いつもと違った感じになります。
歌手は自分の歌声を聴きながら歌います。
自分を観ながら、歌います。
自分の声を観ないで歌う人は、上達しません。
自分がアウトプットすることをよく吟味しないでアウトプットすると、乱雑になります。
自分を観ることを中心として、何事も行為してみてください。
自分に目が向いていると、自分がやることが野放しにはなりません。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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