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いつお迎えがきますか

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私は死にたいと思って日々生きています。

テレビなどで病気で亡くなった方の特集をしているのをみて、生きたいと思っている人でなく私みたいな人を病気にすればいいのにと思ってしまいます。その方がもっと世の中の為になるとも思います。

なぜ、私は死ねないのでしょうか?
お迎えがくるタイミングは誰が決め、いつ頃くるものでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ホントは生きていたいクセに。

”なぜ、私は死ねないのでしょうか? ”
死ぬ縁がまだ無いからです。

”お迎えがくるタイミングは誰が決め、いつ頃くるものでしょうか?”
ま、そんなこと心配しなくても大丈夫ですよ。
人間の死亡率は100%ですから。

”私みたいな人を病気にすればいいのにと思ってしまいます。”
代わってやれるものなら、ぜひ代わってやって下さい。

”その方がもっと世の中の為になるとも思います。”
余計なお世話ですよ。

あなたがなぜこんな質問をしてきたのかは存じませんが、いつ死んでもいいと本当に覚悟ができている者は、一方で「死ぬまで生きてやるぞ」という強い意志も持っているものです。
あなたの息の根を止める方法はいくらでもあるでしょうが、あなたの場合はきっと死んでも死に切らんと思いますよ?

次は、
「死にたくないんですけど、どうやったら生きていけますか?」
と素直にお尋ね下さいませ。

仏教では、命を粗末にする者への温かい言葉は用意されておりませんので。

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今お迎えが来ていることを知ってほしい

オムカエデゴンス。
人間一秒一秒、死んでいるんです。
真でないと思っているのはアタマ。
ホントは、人間の思考を離れた実際の世界の「実相」としては、細胞レベルで1秒1秒死んでいる。北斗の拳で言うと「お前はすでに死んでいる」。
タイトルを入力していた時の私もあなたもすでに「アベシ!💀」死んで生まれ変わっているのです。
あなたは気に入らんかもしれませんが、それが仏の命のチカチカです。
いいじゃないですか。
もう、そんな暗いことを考えていたあなたも死んでいるのですから。
新しい価値観で、今の時点で「早くおムカエが来てほしい」だなんて思わなくても、ちゃんと来てる。

だから、如来というのです。
だから、如来如去というのです。
試しに手を叩いてみましょう。
パン!
その音は、来たのか。
去ったのか。
来た時点でおムカエなのです。
あなたの身心の上に禅人生の中で最も真新しいこととしてひびいたのですから。
こういう言う教えだって、他じゃ聴けません。
実際に、同じ話を聞いたって、それはそれで真新しい、最新のもの。
産地直送、採れたて新鮮。
私は今、暑くてエアコンを入れましたが、その風だって、産地直送、とれたて、出会いたてのホヤホヤ。新鮮、フレッシュ。
如来とは、イボイボ頭の仏さんのことじゃなく、今あなたがここで出会っているこのことだぞ!と某老師から教わりました。本当にそうだなぁと思います。
すべてが来るがごとく、
すべてが去るがごとく。
この身心は何が来ても、来るもの拒まず、去るもの追わず。
何を入れても後を留めず。
そういう全自動浄化機能が働いているさまを仏教では「悟り」といいます。
そういう状態で生活してることが明らかになれば、たとえ昨日、忙しかった、つかれた、ということがあっても、その時のことなんてもう、どこにもないじゃないですか。
そのくらい、全自動で私たちの身心は常に浄化、常に転変、常に今のことしかないのです。
あなたの思いとは別な形で新しく、産地直送、採れたてホヤホヤのフレッシュな出会いなのです。今あなたの身心が触れている如来様は何でしょう。
私は、コオロギ如来様が美しい交響曲を奏でてくれています。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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