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罵倒をついてしまいました。

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有り難し有り難し 33

現在妊娠中のものです。
会社帰りの電車で、優先席に座った所、
携帯を触っていたら注意をされました。

いつもなら、普通に電源を落としてスミマセンでしたと言えたのに、何故かすごく腹立たしい気持ちになってしまい、注意した方に大きな声で悪態をついてしまいました。

疲れていたのもあると思います。

ですが、最近ささいなことに苛立つ自分もいて、こんな自分が母親で赤ちゃんが可哀想だと思ってしまいました。

また、こんな自分が母親になっていいのか不安です。同じように子供に怒鳴り散らして後悔したくないです。

確かに、携帯触っていた自分が悪いと思います。ただ、自分の感情を、コントロール出来ていないことがすごく不安です。

こんな私が、母親になって赤ちゃんは幸せになれるんでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

大丈夫です

 どうぞくれぐれもお身体を大切になさって下さい。
 とてもイライラしたり気持ちが落ち着かないことはよくわかります。妻がそうでしたから。
 確かにいつもイライラしていると周囲の人も困りますし、当然赤ちゃんは敏感にそれを感じ取りますよね。
 お釈迦様は貧瞋癡(とんじんち)の3つの煩悩(ぼんのう)は人が苦しまなければならない根本原因で、取り去ることが難しいと仰いました。この3つはそれぞれ次の意味を持ちます。貪欲(とんよく)=むさぼり(欲深く物をほしがる、際限なくほしがる)、瞋恚(しんに)=怒り(自己中心的な心で、怒ること、腹を立てること)、愚痴(ぐち)=迷妄(物事の道理に暗く実体のないものを真実のように思いこむこと)です。
 この三毒煩悩をなくすように修行するのです。しかし、凡夫である私たちは自分の力でこれをなくすことができません。
 貴方もまさに瞋恚の中で苦しんでおられるのだと思います。そんな私たちに、浄土宗の宗祖法然上人は「罪人なりとても疑ふべからず、罪根ふかきをもきらわずとの給り」と、罪人だからといって阿弥陀様の救いを疑ってはいけない、どれほど愚かで怒りっぽい人でも阿弥陀様はお救い下さるので、「南無阿弥陀仏」と声に出して念仏をお唱えすることをお勧めになりました。これは元々お釈迦様のお弟子様の阿難尊者に授けられた教えです。
 ぜひお念仏を何度もお唱えになってはいかがでしょうか。きっと心が落ち着くと思います。
 心を安らかにして無事元気な赤ちゃんの出産をご祈念申し上げます。

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おきもち

個別相談可能
35年ほど地域福祉の仕事をとおして様々な相談に応じてきました。浄土宗教師以外に社会福祉士と介護支援専門員、福祉住環境コーディネーター2級などの資格を有しています。少しでも気持ちが楽になっていただければ幸いです。
平日の夜や休日など時間帯によっては可能です。

正見 おのれの見解なしにものをみる

知らない人がこちらの事情も知らずにその人の思い込みで色々言ってくるということはよくあるものです。
先日、私もワイフを助手席に乗せて近所を走行しておりました。
細い道を出ようとゆっくり進んでいたのですが、自転車のおばちゃんが「あーーーーーー!」と言って転倒されたのです。
ぶつかったわけでもなかったのですが、すぐに降りて丁寧にお詫び申し上げましたら、アンタは別にいいのよ!助手席で笑ってたそっちがムカつくのよ!とたいそうご立腹で。へ???
運転していたのは私ですし、ワイフが笑っていたのはたまたま私と会話をしていた事で笑っていたのであって、別におばちゃんが倒れたから笑ったわけでもありません。
人間はそれぞれが自分の思いを中心に物事をみているものです。実際はそうではないことを自分で思い込んで自分の心を騒がせることは人生において向上を要すべきところです。
その注意された人もあなたが妊娠中と知らずに言ってきてしまったのでしょう。
あなたもその人の事を良く事情を知らない。
その人もあなたの事情をよく知らない。
そういう中でのやり取りというものは、相手を問題にしているというより、自分自身のルールやポリシー、自分の独自の世界を相手にしているものです。
その人が守りたかったルールは、ここは体が弱っている人や妊娠中の人の席だよ、と守るべきものがあったのでしょう。
あなたが守るべきはお腹にいる新しい命です。優先席に座って問題ありませんし、当然です。むしろ、周りからいくら誤解されていても座ってよいのです。遠慮して坐らない人がいるそうですが、それも思い込みなのです。多いに赤ちゃんの安全の為にも座ってあげるべきでしょう。車内で転倒しただけでも危険なのですから。
ここで、お互いの共通点はその人も、あなたも守るべきものがそれぞれ違うようでも「いたわるべきものをいたわる」ということで同じだったということです。
そして、それぞれがそれぞれの思い違いの中で生きていたということではないでしょうっか。
仏教とは、人間のそういう思い込みを離れて正しく物事をみる眼を養う教えです。
お子さんの為にも安らかな人生を歩んでください。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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