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宿望で働くには

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有り難し有り難し 19

ご相談よろしくお願い致します。
私は真言宗派でありまして高野山の宿坊にて働きたく求人を探しておりますが中々働ける所が見つからず困っております。どの様に探すのが一番の近道になりますでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

宿望をさらに高い望みに。

実際に人手が足りなくて、求人募集があれば募集があるものでしょう。
募集がないのであれば、それが今の答えなのかもしれませんね。
いま、募集がないという答えが出ているのであれば「そう」なのでしょう。
そこが、あなたの進むべき道をよくよく考えるべき機縁です。
宿坊で働きたいという、かねてからの願い「宿望」は、より高い望みに転化、昇華させてもよいものではないでしょうか。
そもそも宿坊が何をするべきところであるか、ということを真剣に追及してみましょう。
そして「ただ仏法の為」にという望み、菩提心を燃やすべきでしょう。
「仏法の為に、ただ仏法の為に。」
菩提心のために、菩提心の為に。
これは道元禅師のお示しでもあります。
人間は仏教・仏法の為にというつもりでも、自分のためにやってしまっていることもあるものです。
宿坊でお寺を宿として訪ねてくださる方々を手助けをする係よりも、いっそのこと住職、職坊になろうと志されたらどうでしょうか。
仏教業界ではほーりーさんというカリスマ寺社旅研究家がおられます。
http://syukubo-blog.com
住職とは住持人。
本当は寺に住む「職」のことではないのです。
まず仏法を学び、仏法を明らかにして、人間の心、我見を離れた「仏法」に目覚めることからです。仏法に目覚めなければ宿坊・住職をやっても「住持人」にはなれないものです。昨今の住職さんは職としてみているからゼニのことしか頭になかったりです。
まず、仏法に安住した人でないと仏法の人、仏法住持の人、住持人にも、宿坊人にもなれないもの、なってはいけないのだ、というくらいの気持ちとをもってみましょう。
宮大工の世界においては、神仏を敬う気持ちのない人間は宮大工をやってはならないという訓戒がります。
現代はお寺関係は誰でもできる時代ですが、もう一度原点に原点に返ってみるべきところがあります。
仏教が好きというよりも、仏教の大意を明らめてこその…、ものがあります。
医療が好きというよりも、医ということの救いを明らめていく…、そういう姿勢が「望まれている」ところが宿坊である、寺院というものです。
宿坊を訪れる人も、宿坊を運営する人も、我々僧侶も目指すところは同じ仏心であるべきではないでしょうか。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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