宿望で働くには
ご相談よろしくお願い致します。
私は真言宗派でありまして高野山の宿坊にて働きたく求人を探しておりますが中々働ける所が見つからず困っております。どの様に探すのが一番の近道になりますでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
宿望をさらに高い望みに。
実際に人手が足りなくて、求人募集があれば募集があるものでしょう。
募集がないのであれば、それが今の答えなのかもしれませんね。
いま、募集がないという答えが出ているのであれば「そう」なのでしょう。
そこが、あなたの進むべき道をよくよく考えるべき機縁です。
宿坊で働きたいという、かねてからの願い「宿望」は、より高い望みに転化、昇華させてもよいものではないでしょうか。
そもそも宿坊が何をするべきところであるか、ということを真剣に追及してみましょう。
そして「ただ仏法の為」にという望み、菩提心を燃やすべきでしょう。
「仏法の為に、ただ仏法の為に。」
菩提心のために、菩提心の為に。
これは道元禅師のお示しでもあります。
人間は仏教・仏法の為にというつもりでも、自分のためにやってしまっていることもあるものです。
宿坊でお寺を宿として訪ねてくださる方々を手助けをする係よりも、いっそのこと住職、職坊になろうと志されたらどうでしょうか。
仏教業界ではほーりーさんというカリスマ寺社旅研究家がおられます。
http://syukubo-blog.com
住職とは住持人。
本当は寺に住む「職」のことではないのです。
まず仏法を学び、仏法を明らかにして、人間の心、我見を離れた「仏法」に目覚めることからです。仏法に目覚めなければ宿坊・住職をやっても「住持人」にはなれないものです。昨今の住職さんは職としてみているからゼニのことしか頭になかったりです。
まず、仏法に安住した人でないと仏法の人、仏法住持の人、住持人にも、宿坊人にもなれないもの、なってはいけないのだ、というくらいの気持ちとをもってみましょう。
宮大工の世界においては、神仏を敬う気持ちのない人間は宮大工をやってはならないという訓戒がります。
現代はお寺関係は誰でもできる時代ですが、もう一度原点に原点に返ってみるべきところがあります。
仏教が好きというよりも、仏教の大意を明らめてこその…、ものがあります。
医療が好きというよりも、医ということの救いを明らめていく…、そういう姿勢が「望まれている」ところが宿坊である、寺院というものです。
宿坊を訪れる人も、宿坊を運営する人も、我々僧侶も目指すところは同じ仏心であるべきではないでしょうか。