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永代供養か共同墓地か

回答数回答 2
有り難し有り難し 26

祖父のお骨について相談させて下さい。
私は現在結婚をして家を出ています。
実家とは折り合いが悪くほぼ、連絡を取っていません。

先日義実家の用で納骨堂に行った際に、私の祖父が入っていた納骨堂が建て直しされた事が分かりました。
2年前に建て直しをするから遺骨を一旦引き取る旨を実家は知っていましたが引き取らず、そのままにしていた様です。

現在は本堂の隅に置かれている状況ですが、今年中に引き取らないと処分されてしまうそうです。

その為実家に連絡を取ってみたのですが、あいまいな返事しか返ってこず、多分そのままにするつもりの様です。

私と祖父は血が繋がっていませんし、結婚をして家を出ているので私側でお墓を買ったり納骨堂を新たに買ったりする事は金銭的にも厳しいです。

実家も散財ばかりしているので新たに納骨堂を買ったりする事ができないと思っています。

永代供養か共同墓地を考えていますが、直ぐにはお金を出せない状況なので、一旦遺骨を家に保管しお金が貯まったら永代供養、あるいは共同墓地…と考えています。

しかし、実家では遺骨を引き取りたくないの一点張りです。

もう、どうしたら良いのか分からず困っています。
どうが、ご助言頂けないでしょうか…


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたがおじいさんにかわってご両親を改心させる大作戦

もし、あなたが孝行・孝順の心があるならば、おじいさんのお骨をお寺さんから引き取ることです。
あなたが引き取ってしばらくご両親に内緒で預かってください。
まず、どういう理由でお骨を引き取らないのかが問題です。
もし、ご両親たちが親不孝もんで、どうでもいいと言う扱いであるのなら、それをあなたが改心させるしかありません。人間は歳を重ねたからと言って人格者・人徳者であるとは限りません。いくらあなたの親であってもそういうものです。もし、お寺に問題があるのであればそれはそっちの問題ですが、仮に生前にどんなことがあったとはいえ、亡くなった人に対してホッタラカシでお寺に処分させるという魂胆は人としてどうかと思います。費用は安くするならいくらでも可能です。
ご両親が、自分たちの親であるおじいさんのお骨に真摯に向き合わないままであるならばお寺には内緒にしてもらってお骨をあなたが一度引き取ることです。そして差出人をおじいさんの名前にしてご実家に送られてはいかがでしょうか。
ヒヒヒ📦タダイマ💀 (゜o゜;)(゜o゜;)ひー!
後はご両親たちの人間性次第。
お寺にまかせっきりといういい加減な人は実際に居ます。
そういう方は、身内がその人の目を覚まさせないと変わりません。
お寺には自分が引き取ったということは内緒にしておいてもらうことです。
通常お寺は引き取り手のないお骨はお寺の規約によって異なりますが、永代供養塔などに納めてしまうものです。そうなる前に、最後にご両親に目を覚まさせるためになすべきことをさせてはいかがでしょうか。
普通に考えてください。
何故、生きていた時は普通に暮らしていたはずの身内であったのが骨になった途端に触れたくもないような扱いをされなければいけないのでしょうのか。ひどい言い方をすれば「ゴミ扱いじゃないか。」と私がおじいちゃんだったら思いますわい。そう思いませんか?👴アイツらを懲らしめてやってくれ。ワシャ骨になったちゅうだけのことぢゃ。
仮におじいちゃんが生前、両親にとって毒親であっにせよ、死後もその心情を引きずって、お寺に預けてホッタラカシでなすべきこともしないままというのはちょっとかわいそうですよね。それができなければ、いつかあなたのご両親も亡くなり、お墓に入る時が来るはずです。その時に一緒に入れてあげるつもりで持っているか、お寺に預骨すればよいでしょう。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

骨肉の争いの種になるくらいなら…

親しい人が亡くなった時、本当に寂しいものです。だから、たとえお姿が白骨になってしまってからでも、やっぱりまた会いたいのです。故人に会いに行く為にお墓があります。お坊さんが「仏壇は仏を祀るものであって先祖壇なんかじゃないぞ」といくら力説したところで、やはり亡くなった人と家の中で再会する為の装置として仏壇が据えてあるのが現実でしょう。

しかし、いつの日か故人の在りし日を偲ぶ為のツールとして、礼拝の対象物としてのお役目を終えてしまったご遺骨(墓・仏壇等)は、残念ながら今度は後の処置にめちゃくちゃ困る大変厄介な物になってしまうのも現実です。ましてや、生前の諸事情で鼻っから厄介な物体として放ったらかしにされている例も相当数ございます。

あなたのような致し方ない事情を抱える人の為に、ウチも最近、《永代供養墓》を開設し、全国からご遺骨を引き取ってご供養ができるよう準備を整えました。
私はこの取り組みを僧分としての社会的な役割である考え、既存の檀信徒のみならず、いわゆる”訳あり”のご遺骨も積極的にお引き取りしては永代供養をしています。ちなみには御札やお守り、数珠、経本、写真、人形等々、可能であれば何でも引き取って処分を代行しています。

あなたのお近くにも、私と同じような取り組みをしているお寺さんはいらっしゃるのではないですかね。
一度お探しになってみてはいかがでしょうか?

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有り難し
おきもち

個別相談可能
【公認心理師】 【レンタルお坊さん】活動中。 とりあえず何でも相談してください。 でも、悪い事とやりたくないことはやりません。 https://www.facebook.com/rental.monk rental_monk hasunoha.tenrakuin@gmail.com
平日は夜間のみ対応可能。

質問者からのお礼

回答頂きありがとうございます。
また、お返事が遅くなりまして申し訳ございませんでした。
やはり、このままにしておくにはいきませんので期限まで待って、引き取られていなければ一旦うちで引き取り送り届けようと思います。
その後の事に関しては実家に任せて、協力要請があれば助けるようにしたいと思います。
ありがとうございました。

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