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私に気持ちが無い夫と一緒にいるのが辛い

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お付き合いも含めると12年程一緒にいる夫についてです。
元々は夫の方が私を好きになってくれて付き合ったのですが、
いつからか関係性が変わり、私の方が好きなのだと感じるようになりました。
性行為もなくなり、それでも日々は楽しく仲が良かったので夫は性欲がないのだと諦めていました。
そんな中、風俗と浮気疑惑が有り、話し合った末一緒にやっていく事になったのですが、関係性は変わらず。
話し合いのとき「感謝している」と言われました。
私をもう女として好きではないのだと分かりました。
日々の言動を考えると家族だから一緒に居るけど、私個人を愛してはいないのだと思います。

本当はもう一度好きになって欲しいけれど、とても難しいと感じています。
夫と同じようにただの家族として一緒に居られたら、どれだけ楽だろうと思ってしまいます。
それでも夫を嫌いになれません。

別れたくはないけれどこのままは苦しいです。
私はどう考えて生きていけばいいでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「性孤独」♨レスは夫婦関係の倫理をも超える💀死活問題💀

こんにちは。アダルト18禁♨お悩み相談の時間がやってまいりました。
♡18歳以下の人は見ちゃだめよ。ダメ、ゼッタイ。
旦那がフーゾクや浮気疑惑があるということは性欲はあるわけですから、こんな言い方で申し訳ないのですが、はい、今晩、早速、あの、アッチの方を、ええ。♨愛を深めてください。無理やりにでも。はい。1回断られたとしても三顧の礼で。え?5回断られたら?七転び八起きで。ドリカムの曲で10000回ダメでも10001回目にはナントカなるみたいな歌があるじゃないですか。あれは夫婦間のセックスレスを題材にした歌であったかと記憶しています。(違うっつの)
そもそもレスが続いてきた彦星&乙姫、オリンピック、ご開帳、ハレー彗星だったからこそ旦那が他の女性に気持ちが向いてしまったということはよくある話。
旦那はその気はあったのに、イタす機会が失われて寂しかった、ということも原因の一つだったのではないでしょうか?少なくとも絶対にお互いに寂しかった時期があるはずです。それはお互い様です。相手を責めてもなんも変わらない。実際夫婦のセックスレスは正式に離婚の原因として法律的にも認められています。
他の女性と関係を持ったとしても、愛はない。あなたと一緒にいるという今の事実が答え。
厳密には浮気というより一時の代償としての性処理と考えた方がいいでしょう。
だから別にあなたに興味がなくなったわけではないはずです。もしそうなら男性はとっくに離婚しています。夫婦でありながら関係が持てかったから代償として外で済ませるという浮気は男女間ではよくある話です。本当に相手の女性に惚れたらホントの浮気。むしろ本気。そうでないのは相手も犠牲者です。
先日友人が数年ぶりに夫婦で極楽したという話を伺いました。赤飯送りました。あってからとなかった時期とでは、冷え切っていた生活がその後ガラリと変わったとのことです。
世間のニュースでも奥さんの妊娠中に浮気という、女性にとってはなぜ?ゆるせない!という話が「頻繁」にあります。あれが物語ることは百億歩譲って申し上げれば性欲の盛んな男性にとっては性生活のある無しは「夫婦の倫理観も超える死活問題」の面がある!ということを、私は日本の教育において保健体育の教科書に明記するべきであると思っております!
どうか男性・旦那さんの「性孤独」を理解しお互いよりそうべきであろうと思います。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ