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虚言癖

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有り難し有り難し 10

私は子供の頃から些細な嘘をついてしまいます。

たぶん きっかけはイジメ。
自分に注目を集めたかったのか…?
その後は成長と共に他人を陥れるような嘘もついて傷付けてきました。
イジメで辛い気持ちを他人に ぶつけていたのかもしれません。

バレて またイジメがエスカレートした事もありましたが、また別の人に嘘をついて傷付けて…。

◯◯は△△が好きみたいだよと仲人気取りで嘘をつき
全く興味がないとか言いながらも
好かれていい気になっていく姿を見て
バカだなぁと思ったり…私の性格は歪んでる。

本当は弱くて ひとりが辛いのに、
イジメで ひとりになり、自分は ひとりでも平気
って自己暗示をかけ、強い自分を作り上げ、
もはや自分さえも嘘に塗れて自分さえ作りもののよう。

嘘がバレて人が離れても、元々ひとりだし
どうでもいいって思ってしまう。

けど人生折り返しを過ぎ他人を傷付けてきた事を悔いています。
夢で その時の事を見る事もあります。
なんの為に嘘をかさねてきたのか自分でも よく わからない。
これが虚言癖だと言うのもネットが普及してから知りました。

こんな自分が嫌で苦しいけど、もう素の自分が どうなのかすら自分では わからない。
この年齢になり流石に他人を陥れるような嘘はないし、
誰かを騙したり嘘をついたりはなく改心しなきゃと思いながら暮らしてきています。
もう本当の自分は ずっと前に失くなったように思います。

いつか とんでもない罰を受けるのではないだろうかと
最近は不安で眠れなくもなりました。

この先 何をするのが償いかも わからないし、
本当の自分を取り戻して素の自分を出して生活していけるのかも わかりません


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

オソロシア故にモンゴル嘘800地方に逃げる

タイトル意味不明で失礼いたします。
まず、あなたは「情報しか信じていない」のです。
それが嘘つき症候群の根底にある。
実際の現実を迎える・であう・見極める前から自分の脳内ディスプレイに映し出された最悪の事態や恐ろしいシチュエーションを相手にしている。
つまり、ものの真実をみようとする前に自分の恐れる最悪の結果を思い描き、その思いに怖気づいてしまっているのです。
本当はもっと別の真実が待っているにもかかわらず、あらかじめあなたが想像したオソロシアな脳内情報しか相手にせず、そちらしか信じていないからコンタック600モンゴル800ならぬ嘘800になるのです。
人との対話においても「あー、こう言っちゃうとひょっとして…💀」オソロシアになってしまうかも知れない💀と瞬時に怖れて保身する傾向が強いために、そのオソロシアからそれた隣接国モンゴル嘘800に逃げてしまっているのです。
いつかとんでもない罰にあう、袋叩き似合う、タコ殴りにあう、逆さづりにされて一晩庭木につるされる、オオカミ少年のようになる、簀巻きにされて川に投げ込まれる、針センボン飲ませられると書いておられますが(書いてねぇよ)それもあなたの最悪の事態を想定した脳内情報というもの。あなたはあなたの脳内ディスプレイに映し出されたことしか相手にしていないのです👉!でしょう。真実をみていないのです。あなたはここで真実を言っている。
「いつかウソがばれてひどい目に合うに違いない」というあなたの本心が実はヒントなのです。本心は嘘をつかない。
あなたの「恐れの心」が自分を外の世界に導かないだけなのです。
こわいから、怖い目にあいたくなくて、つい身を守ろうとして嘘をついてしまうのでしょう。
こういうやり取りも情報です。
情報同士の情報だけのやり取りでしかありません。
ですが、情報であっても限りなく真実に向かわせる「本当」のことはあるのです。
言葉とはそのように使われるべきです。
わたしはこの情報を通してあなたが情報という嘘の沼から、真実という事実の大空の先にある光に目を向けて、真実を恐れずにみつめる力を持っていただきたいと思います。
ゴーストに実態はありません。あなたはあなた自身にすら情報でghostという名を与え嘘をついているのです。ドーン!👉(゜o。;)👻
嘘は自分を良い心に導くための方便だけにしましょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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