私は周囲から誤解されています。

それとも私自身が私を誤解しているのでしょうか。
周囲が思う私
私が思う私

正しいのはどちらなのでしょうか。
正しい自分を知るにはどうすればよいのでしょうか。

心構え・生きる智慧
有り難し 5
回答 1
回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。
回答僧

大慈

正からずの真実

OK牧場ってありますよね。
自分も他人も知ってる自分。自分は知ってるが他人は知らない自分。自分は知らないが他人は知ってる自分。自分も他人も知らない自分。そう考えると、乱暴な分け方ですけど、人はみんな自分のことも他人のことも半分しか知ることができないわけです。テストでいうと50点までしか取れないと。そんなモンなんですよ、案外に。
50点の答案と50点の答案を比べたところで、正しいのはどちらというのはチト無理があるんです。そりゃそうでしょう?
上手い具合に両者のいいとこ取りをしてみても、自分も他人も知らない自分が四半分ですから最高点は75点。惜しくも成績優には届かないのです。そんなモンです。

そう、自分のことなんか知り切れない。まして他人や世界のことなんか知りようがない。その知りようがないということをハッキリと知る…それが謙虚さってモンだと私は思うんです。
往々にして悪口の類は知ったかぶりや決め付けから出てくるものです。「私のあずかり知らぬところで何か事情があるのかも知れない」と思えば悪口なんか言えようはずが無いでしょう?だから分からない方が世の中は平和になるんです。分からないほうが賢いんです。
うん…まぁ、知らないほうが良いと言いますと誤解を招きやすい表現でしたね。

もっと仏教的に正しく言うと、「考えによって定義しない」。

眼耳鼻舌身意でパッと捉えたものにアレコレ上書きで定義しない。そのまんま。
ぶっちゃけ、眼で見えてる色だって一人一人微妙に違うんですから『正しい』認識なんて無いんです。でも、上書き定義をしなければ心が苦を生むシステムが活性化しない。考えという煩悩が機能しない。ソコが大事なんです。

私たちお坊さんは、その苦を生まない生き方を真理や真実と呼び、あるいは修行と呼びます。
そう、正しかろうが誤解だろうがどっちでもエエんです。ただやる事をやるのみ。それが真実です。

26日前

質問者からの有り難し - お礼

大慈様。深夜にもかかわらず懇切な御回答ありがとうございます。
わからないことを「わからない」と悟ることが肝要というご指摘でしょうか。
確かにわかりようのないものをわかろうとすること自体が私の傲慢なのかもしれませんね。
そもそも今日たまたま正しく生きられたとしても明日には間違ったことを考え、やらかすかもしれない。常に正しいわけでも常に間違っているわけでもないのだから局面ごとの自己評価・他人の評価を気にしてもしょうがないのでしょうね。
どうもありがとうございました。

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