人が嫌いで幻想が好きです
他人と話すことが苦手です。
幼少の頃にまざまざと見せつけられた人間の悍ましい本質。今の私を形作っているものであり、同時に認められないものでもあります。
私の好きなことは全部「他人」によって遮られました。
絵も、音楽も、ピアノ理科も文学も、歌も。
私はぼうっとしていて踏み躙りやすかったのでしょう。
私の心惹かれたもの「全部」他人が奪っていくのです。
だから人間は嫌いです。
へらへら笑って私の大切なものを奪っていく。それは当たり前で弱肉強食。理解はできますが納得はできません。
それでも最近とっても大切な「キラキラ」を見つけました。
その大切なことを成すには私は人間を知らないといけないのです。
でも人間は嫌い。
私はどうすればいいでしょう。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
キラキラなあなた
幼少期の体験から人間をおぞましいと感じてしまうのですね。好きなことを全部遮られてしまう辛さを経験しながらもこれまで大変に頑張って歩んでこられたのですね。そして今もなお、あなた自身の大切なことを為すために、嫌いな人間を「知らないといけない」と頑張っておられるのですね。
これまでは変えられません。幼少期の経験も自分の力ではどうすることもできなかったものがあるのでしょう。
しかし今は違います。
今はもう、真実を知ることを求めることも、やりたい事をやるために自ら現実に立ち向かうこともできます。
今、これからどうするかで、過去の事実は変わらなくとも受け止め方は変わるでしょう。過去も未来も今のあなたの中に流れています。
この世においては「私のもの」は何一つありません。
絵も、音楽も、ピアノも、理科も、文学も、歌も、「私の〇〇」というものはないのです。
どうして他から奪われることがありましょう。
「私の」という所有の価値観があるからこそ、「奪われる」という価値観が成り立ちます。所有がなければ奪われません。
絵も、音楽も、ピアノも、理科も、文学も、歌も、「あなたのもの」ではなく「その時のあなたを形作ったもの-縁(えん)-」です。
「私がいて、その私が絵を所有した」のでなく「絵を描く私が縁によって存在させていただいた」のです。
絵を好きになったことも、好きになった絵を描ける道具があったことも、描きたいと思って描く手があったことも、「私の力」ではありません。
私にそうさしめる縁(えん)=条件がととのったおかげ様です。
人間にはたしかにおぞましい面があります。
しかし彼らもおぞましくなろうと思ってなったわけではないでしょう。彼らがそうしてしまった縁を恨むことより、痛み悲しむことです。
そして縁は運命ではありません。運命はこまでもこれから先も全て決まってしまっていること。縁はこれまではそうだったが、今どうするかでこれからは変わっていくものです。
あなたはあなたが人間にはおぞましい本質があるという縁に気づいたからこそ、その縁に自らの態度を示していけばよいのです。
それがあなたはあなたの「キラキラ」を求めたいという歩みなら素晴らしいことでしょう。もう誰に奪われることもありません。「あなたのキラキラ」から「キラキラなあなた」へ。そんな縁が紡がれますことを。
質問者からのお礼
……私は奪われていなかったのですね。
ただ「縁」によってそれが埋もれていただけ。私は何も失くしていなかった。
ああ、そうなのですね。
そして失った気になっていたからこの「縁」に恵まれた。
世界は悲しいけれど、
ありがとうございます。
この「縁」に感謝を。