人間に向いていない気がしています
こんばんは。
自分は今現在引きこもりをしています。
小さいころから漠然と思っていたことですが、なぜ人は人の群れの中で生きていかなければいけないのかがわからなくなりつつあります。ずっと永遠に誰もいないような世界に一人で居続けるような妄想に浸っており、誰にも迷惑をかけず誰のためにも行動せず(なぜなら自分が他者にしてあげたことが裏目にでることもありますから)一人の世界に居続けることが理想のような気がしてなりません。勿論今現在の自分は様々な存在のおかげで成り立っているもののはずですが、だからこそこの仏教の世界でいうところの縁のようなものを今すぐ全て断ち切りたいと思ってしまいます。しかし結局そういう一人だけ一抜けするような考え方だと、仮に死後の世界のようなものがあったとしてまた別の何らかの存在に迷惑をかけたりお世話になるような気がしてもいます。勿論考えて意味のないことを考えても無駄なのですが、なんというか、今現在の自分が生きているというだけで、今在る他の何かを苦しめたり、巨大になり続ける欲望の装置に加担しているような気がしています。本当に自分の行動や存在が正しいものなのか全く自信がありません。美しいものや努力の賜物が、為政者のための道具として使われたり、権威の飾り付けだったり、そもそも自分自身の欲望のためだったり、結局人間社会はそういう仕組みで、最後には様々なバランスが全て欲望に傾くのだと結論付けました。自分は歳をとって何か色んなことをわかったようなつもりでいて、実は何か小賢しい間違った考え方に凝り固まったのではないか、という気もしています。自分のために行動を起こせないし、かと言って本当の意味で周囲の人や世界のためになることをするのは難しく不可能です。そもそも世界など存在しなければよかったのでは?日本社会には様々な仏教の宗派なり派閥があると思うのですが、それぞれの存在証明や主張にどう折り合いをつけているのでしょう。自分のようなこんなどうでもいいことを考える余裕のあるやつから淘汰されるのだと思いますが、かと言って日々に忙殺される生き方をしていても経験的にすぐに自分を見失う気がします。何を言いたかったのか段々わからなくなってきましたが、何か助言を頂けると有り難いです。よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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美味いラーメンを食ってください
ご相談拝読しました。
「日々に忙殺される生き方」に嫌気がさして、今現在は引きこもりをされているのでしょうか。これからどうするか一緒に考えましょう。
さて、頭の中で色々と考えていらっしゃるのですね。時間もあると余計にそうでしょうか。今は以前のような忙殺ではないにしろ、その思考に飲まれてしまっている様子が伺えます。
世界も日本社会も仏教宗派も派閥も論理的整合性がとれて存在しているわけではないのです。存在証明ができるから存在しているのではないのです。
存在するから存在するのです。
「なぜ?」は後付けです。存在する原因(意味ではない)があり、存在させる条件が整っているから存在します。存在することで悪影響があろうが、今や存在時の意義が失われていようが、存在するものは存在します。
人間に向いていようがいまいがあなたは今存在します。
人が群れの中で生きていかねばならないのではなく、人が生きているという存在が群れを存在させたり、そうでなかったりします。
今ここにこうある
その事実から歩みを始めましょう。それをどう考えようがあるものはあるのです。
あるラーメン屋が、皆が美味いとと思い、他に同じラーメンを提供する店が存在せず、そのラーメン屋でないといけないから存在するのではありません。
店主がやりたいと思い(因)、それを支える条件(縁)がととのっているから存在するのです。
そこに「正しい」意味や理由や論理的整合性はいらないのです。そういうものがあるからラーメン屋があるのでなく、そのラーメン屋があることについて色々考えたい人のところに意味や理由が後付けされるだけです。
ですから、あなたも「自分の行動や存在が正しいものなのか」という意味にとらわれ過ぎず、
やりたいからやる
という方向に舵を切ってみてはいかがでしょう。
もちろん自分がそう思ってもそれを支える縁が整わなければ思い通りにいきません。しかしそれは「正しくなかった」のではなく、「縁が整わなかった」のです。
あなたはあなたのラーメンを。
それが人里離れて一人自分がすするためのラーメンであっても別にかまわないのです。あとは自分の意志という因と、それを支える縁とのバランスを見ていくしかないでしょう。
とりあえず「なぜ?」なんて考える以前に「美味い!」とただ唸らされるラーメンを食いに部屋をでましょうか。
仏教の存在論
関seki様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
存在証明・・仏教の存在論証は、本当に面白いですよ。
仏教の認識論、論理学は、誠に難しいながらにも、それだけにやりがいもございます。
虚無主義、悲観主義、厭世主義に傾かれておられるのは、やはり、まだ真に「存在」のありようを理解されておられないところがあるからではないだろうかとも存じます。
是非、これも何かの縁として、仏教における存在論について関心を持って学んで頂けましたらと思います。
以下、宜しければ読解にトライされてみて下さい。
講座仏教思想〈第1巻〉「存在論・時間論」理想社
講座仏教思想〈第2巻〉「認識論・論理学」理想社
シリーズ大乗仏教「認識論と論理学」春秋社
「論理のことば」(モークシャーカラグプタ大師・梶山雄一先生訳注)中公文庫
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
吉武文法様
御回答ありがとうございました。
なんとなく釈然としないというか、しかし元々そういうものだったのだということを感じました。
多くの人を犠牲にしたり動物を殺したりするような世界ですが、それはやはりそういうものだからそうなんだと割り切るしかないのかもしれません。どこか傍観するような気持ちでしばらくは生きてみたいと思います。
川口 英俊様
御回答ありがとうございました。
やはり厭世主義的な、そういう気分になっていたのかもしれません。
お薦め頂いた本を読んでみたいと思います。
何か自分なりの悟りのようなものに近づくきっかけになるような気がします。