読経の際に…
世間知らずの無知な若者です。
父の実家では父が生まれる前から仏壇があり、父が引き継ぎ将来は私が仏壇を引き継ぐ予定です。
また、物心がついた頃(おそらく1歳頃)から法要などには参加しており、周りに比べると仏教に関わる事は多いとは思っております。
お世話になっているのは曹洞宗のお寺です。
話は変わりますが先日祖母を亡くしました。
その時のお通夜・葬式で住職さんが読経なさってくださいました。
私達も一緒に読経しました。
お恥ずかしい事ですが、未だにお経を理解できておりません。
それでもわからないなりにも有り難みは大変感じています。
読経の時にいつも何か込み上げるものがあります。
祖母の葬儀であったからではなく誰の葬儀・法要であってもいつもそうです。
理解していないお経を読んでいるだけなのにいつもこうなります。
私の心の中に何かあるのでしょうか?
伝わりにくい質問で申し訳ありません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
読経とは非日常的な儀礼行為
亀山純史と申します。
数か月前に、「葬儀のお経」という題でのご質問が、このハスノハに寄せられ、多くの方による回答がなされました。その時のご質問には、私は回答をしてはおりませんが、今回、らるさんのご質問が目に留まり、読経に対しての私なりの回答をさせていただければと思います。
さて、らるさんは「わからないなりにも有り難みは大変感じている。そして、読経の時にいつも何か込み上げるものがある。」とのことですが、それは、読経という行為が、非日常的なものであるからだと思っています。読経は非日常的なもの、まさに「有ることが難しい」ものでしょう。よく、「内容がわかるようにと、現代語訳でお経をあげたら、有難みがなかった。」という話を聞きます。それは、非日常的な行為が日常的な行為になってしまったからだと思います。そして、読経とは、所謂、説法や法話とは異なり、一種のルーティン化した行為、つまり儀礼行為です。儀礼ですから、「そうすることに意義がある。」というものです。
整理をすれば、読経とは非日常的な儀礼行為であるため、それは普段の生活や日常行為からかけ離れた行為であり、それは「そうすることに意義がある。」という行為であるために、読経を通して、多くの人は、らるさんのように有難みを感じ、何かこみ上げるものがあるのだと思います。
これからも仏教とのご縁を大切になさってください。
あなたの我を通した思いが表に出てくるのでしょう
私も僧侶でありながら、涙を流したことがあります。
感情的になりお経を中断してしまったことがあります。それは、死について頭で考えていたからでしょう。
お経をあげつつ、死ということは、悪いこと悲しいこと辛いことと決めつけていた部分があり、そうした捉え方を考えでしていました。
人前で涙を流すのは良くないことだと自分で決めていたので、その時は自分でも驚きました。しかし、冷静に後で考えてみると、やはりそこに、自分というものを置いて死について考えていた部分があります。
実際「死」とは誰にでも訪れる「生」と変わらないことだということです。お経の力というよりは、そうした死に対する思いが表に出てくるのだと思います。
質問者からのお礼
お二人ともありがとうございました。
回答を読んで少し気が軽くなったようにも思えます。
これからも仏教との縁、お経を大切にし、人生を歩んで行きたいと思います。