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読経の際に…

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有り難し有り難し 14

世間知らずの無知な若者です。

父の実家では父が生まれる前から仏壇があり、父が引き継ぎ将来は私が仏壇を引き継ぐ予定です。
また、物心がついた頃(おそらく1歳頃)から法要などには参加しており、周りに比べると仏教に関わる事は多いとは思っております。

お世話になっているのは曹洞宗のお寺です。

話は変わりますが先日祖母を亡くしました。
その時のお通夜・葬式で住職さんが読経なさってくださいました。
私達も一緒に読経しました。

お恥ずかしい事ですが、未だにお経を理解できておりません。
それでもわからないなりにも有り難みは大変感じています。

読経の時にいつも何か込み上げるものがあります。

祖母の葬儀であったからではなく誰の葬儀・法要であってもいつもそうです。

理解していないお経を読んでいるだけなのにいつもこうなります。

私の心の中に何かあるのでしょうか?

伝わりにくい質問で申し訳ありません。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

読経とは非日常的な儀礼行為

亀山純史と申します。
数か月前に、「葬儀のお経」という題でのご質問が、このハスノハに寄せられ、多くの方による回答がなされました。その時のご質問には、私は回答をしてはおりませんが、今回、らるさんのご質問が目に留まり、読経に対しての私なりの回答をさせていただければと思います。

さて、らるさんは「わからないなりにも有り難みは大変感じている。そして、読経の時にいつも何か込み上げるものがある。」とのことですが、それは、読経という行為が、非日常的なものであるからだと思っています。読経は非日常的なもの、まさに「有ることが難しい」ものでしょう。よく、「内容がわかるようにと、現代語訳でお経をあげたら、有難みがなかった。」という話を聞きます。それは、非日常的な行為が日常的な行為になってしまったからだと思います。そして、読経とは、所謂、説法や法話とは異なり、一種のルーティン化した行為、つまり儀礼行為です。儀礼ですから、「そうすることに意義がある。」というものです。

整理をすれば、読経とは非日常的な儀礼行為であるため、それは普段の生活や日常行為からかけ離れた行為であり、それは「そうすることに意義がある。」という行為であるために、読経を通して、多くの人は、らるさんのように有難みを感じ、何かこみ上げるものがあるのだと思います。

これからも仏教とのご縁を大切になさってください。

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hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧...

あなたの我を通した思いが表に出てくるのでしょう

私も僧侶でありながら、涙を流したことがあります。
感情的になりお経を中断してしまったことがあります。それは、死について頭で考えていたからでしょう。
お経をあげつつ、死ということは、悪いこと悲しいこと辛いことと決めつけていた部分があり、そうした捉え方を考えでしていました。
人前で涙を流すのは良くないことだと自分で決めていたので、その時は自分でも驚きました。しかし、冷静に後で考えてみると、やはりそこに、自分というものを置いて死について考えていた部分があります。

実際「死」とは誰にでも訪れる「生」と変わらないことだということです。お経の力というよりは、そうした死に対する思いが表に出てくるのだと思います。

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質問者からのお礼

お二人ともありがとうございました。
回答を読んで少し気が軽くなったようにも思えます。
これからも仏教との縁、お経を大切にし、人生を歩んで行きたいと思います。

「お経・経典」問答一覧

読経が何故供養になるのか教えてください。

お経を読むことがなぜ先祖や自分に関わりのある仏様の供養につながるのか? 大変罰当たりながら、そのような疑問を抱いてしまいました。 仮に例をあげますと、日蓮宗では法華経を読んで先祖供養などをされると思います。 法華経は釈迦が悟りを開いて亡くなられる前に最後の教えを説いたもので、 数ある経典の中でも最上の教えとされていると聞いたことがあります。 その素晴らしい教えを守り、帰依しますと宣言する=「南無妙法蓮華経」と題目を唱える。という事になるのでしょうが、なぜそれが供養につながるのか疑問です。 自分は先祖や仏様との何らかのつながりがあるから、その自分が題目を唱えることで先祖や仏様の過去の罪が軽くなり救われる。=先祖や仏様も成仏できるという考え方も確かに一理あると思います。 しかし、お経というのはただ聞いたり意味を知らずに読んだりすれば、まるで呪文のようでいかにも効果がありそうに思いますが・・・。 現代語に訳して意味を分かるようにしてみると、一つの物語をただ読んでいるにすぎないように思えてしまいます。 とてもありがたい教えが書かれていることは理解していますが、客観的に考えれば子供に絵本を読み聞かせているようなものではないかと思ってしまうのです。 子供ではなく対象が先祖や仏様へ、絵本がお経という物語へ変わっただけではないでしょうか・・・。 物語を読み聞かせる行為がなぜ供養につながるのか? 先祖供養のためによくお経を読む者として、大変疑問に思っています。 どうか教えてください。

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読経

昨日、母の初盆で自宅にお坊さんに来ていただき、読経していただきました。 今まで無宗教だのあの世は信じないだの威勢のいい言葉を並べて生きてきましたが、母の死に直面して、純粋に「苦楽から解放されてあの世では安らかに過ごして欲しい」との思いで父方の宗派の浄土真宗大谷派のお寺さんにお願いして節目の法要をお願いしています。 お坊さんの法話で、私たちが心配しなくても極楽浄土で過ごされているから心配は無用なんだとの旨を教えていただき、少しずつ自分でもネットで調べて仏教に触れ、今まで無知だった仏教に対しての印象も段々と変わってきました。 そんな私のお坊さんに対する疑問ですが、母の法事のお坊さんの読経中は生前の母は「こんなことあったな」「あんなことあったな」と色々思いを馳せたり、お坊さんの「南無阿弥陀仏」が聞き取れた時はお坊さんの言葉に重ねて頭の中で南無阿弥陀仏と唱えているのですが、未熟なものでそのうち「お経長いな」とか「お坊さん、歌うまそうだな」とか「お経は何て言ってるのかな」とか色々と雑念がわいてきて、母や法事と無関係なことを考えてしまいます。正直お経の意味すら知らない自分が読経に合わせて手を合わせることに意味があるのかなんていう素朴な疑問もよぎります。 自分でも失礼だと思うし、「せめて今日ぐらいはお袋や先祖さま、お袋も可愛がっていた先代のペットのことを考えてやれよ!」と自分自身に突っ込みをいれたくもなるのですが、失礼な言い方ですが読経に自分でか「飽きてしまってる自分」もいるのだと思います。 そこでお坊さん方にお聞きしたいのですが、法事はもちろんこれからも参列する機会もたくさんあると思いますが、お葬式やお通夜など含めてお坊さんの読経中はどういった心持ちでいるべきなのでしょうか? もし同じような雑念が出てきてしまったら、どのように持ち直す?脱線を修正したらよいでしょうか? またお坊さんたちは自身のお勤めの際、どのようなお気持ちで読経なさるのですか?例えば劇の時のように、感情を込めてそのたちばになりきるように、お経の中の言葉の意味に思いを込めて唱えられるのでしょう?また同じような雑念がわくことはありますか? 子供じみた質問で申し訳ありません。

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