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猫の死後の世界について

回答数回答 2
有り難し有り難し 37

こんばんは
私は猫をたくさん飼っています。

色んな死に方をした猫を見てきました。
事故死、蛆がわいて亡くなったり、てんかんでなくなったり、生まれて二日くらいでなくなったり。

この世界にはもっと残酷な死に方で亡くなる子もたくさんいると思います。虐待されてとか。

私の命を助けてくれた猫の死は辛くて、私の命を少し分けてあげられたらと思ってしまいます。

私は死んだことがないので、死後の世界がどんな所かわかりません。

でも、死んでしまった猫ととてもそっくりな猫さんが私の所に来てくれて、ああ、きっと、成仏し天国に行き、また生まれ変わる事が出来るんじゃないかと思いました。

どう思われますか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

喜んでるね

猫ちゃん達は、みみこさんの側にいてくれています。

感謝しています。

またいつの日か、再会出来るから、その時を楽しみに。

如是愛猫発菩提心 頓生菩提 南無阿弥陀佛

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おきもち

ラジオ パーソナリティ 『 命の 相談会 』開催 愛知県愛西市 の 大法寺 の住職をしております。 大法寺は、代々尼僧寺院であり、苦しんでいる女性を救い 「 おわりはじまりのてら 」 「 尾張の駆け込み寺 」と、呼ばれておりました。 白龍が住んでいると言われている、樹齢650年の大楠の元に、倶利伽羅不動明王の祠が有ります。 その宝剣で、悪い縁を切って下さると言われ、『 悪縁切り供養 』をしています。 病気、人間関係、依存症、自分の中の悪い想いを 切って下さいます。 縁切りの絵馬に、切りたい縁を書き込み、縁切りのお護りを授与しております。 是非、お参りください。 『 命の相談会 』 を、開催しております。 胸の中にあるもの、だれにも言えない事を、全て吐き出しましょう。 一緒に泣きましょう、一緒に叫びましょう、一緒に笑いましょう。 自坊、ショッピングモール、赤十字血液センター、カフェ、放送局、等で 定期的に行なっております。 日程は、ホームページで、確認してください。 ホームページ www.daihouji.org 『 樹木葬 大法寺 』 『 縁切り 大法寺 』 で検索してください。 緊急の場合 苦しかったら、辛かったら、電話ください、 09066179353

ネコも自分も成仏させてあげてください

沢山のネコに対する何とかしてあげたいと思う、その心。
その心を衆生と申します。
「自身の衆生は無辺なれど、誓ってこれを救わん。」
あなたが助けてあげたい、その猫ちゃんを生きていても亡くなっていても救ってあげることです。
ネコちゃんでなくても、生きている人間でもかわいそうな死に方をしてしまう人もあります。
理不尽・不条理、ひどい死に方をしてしまった生物の存在を慮る時、我々はこころに誰であっても何とかしてあげたいと切に願う気持ちがわきます。
その心をもっとたくましく燃やして、広く慈悲心を持ってください。
そして、自らのその心を成仏させてあげてください。
今日から明日にかけての未明、お釈迦様は成道=成仏=悟りを開かれました。
人間が人間の見解を離れて、やすらかなる涅槃の心に目覚められたのです。
成仏、成道ということはどういう事かを真剣に求めてみてください。
その猫ちゃんを機縁として、あなたも成仏します。
ネコちゃんもあなたの心の中でやすらかになります。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

そう言っていただけて、心が救われました。
嬉しさで涙が出てきました。
ありがとうございました。

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