生きるとは
私は自分が何故生きなければならないのか理由が分かりません
生物の本能として、と言うのならば人間は増え続けて自分たちの住んでいる地球まで壊し、それでも尚増殖を続けています
なら少しくらい減っても良いと私は思います
今回私が言いたいのはそんなことではなく
日々生活をしていると漠然と、「何故私は生きているのか」と言う疑問に駆られます。
人にそのことを話したところ「そう思ったときは寝るのが一番」と言われ、言われた通りに寝ましたが何度寝ても何度起きても心は虚無感でいっぱいです
やりたいことも幾つかあり、やってみたりもしましたがそれが私の心を埋めてくれることはなく、何故か更に虚無感の穴は大きくなる一方で頭の中には「死」の文字だけが浮かびます。
「生きることはそれだけで素晴らしく尊い事だ」と言うのを見た事がありますがそれは人間なのでしょうか、それは人間でなくても出来る事なのではないのでしょうか、では私が人間として生きる意味など無いのではないでしょうか。
生きる目的も見いだせずにいる私の生きる意味とは、何なのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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無明なる存在にかけられた願い
「なぜ私は生きているのか。」という問いを発することが出来るのは、人間だけです。ならば、その問いを発し、それに答えていくことこそが、私がこの世に生きている答えなのかもしれません。
さて、「人身(にんじん)受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。」という言葉が、三帰依文の冒頭に出てきます。私たちは、人間として生まれることは難しいのに、今、人間として生を受け、また、仏様の教えに出遭うことは難しいのに、今、こうして仏様の教えを聞く機会に恵まれたことを表しています。つまり、この私は人間に生まれる可能性の方が、人間以外の生き物に生まれる可能性よりもずっと低かったのに、こうして今、私は人間として生を受けたのです。そして、この世には様々な教えがある中で、今こうして真実の教えに触れることが出来たのです。そして、私が仏様の教えに触れて思うことは、「人身受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。」というようなことは、無量の因縁の中の出来事でありながら、そこには仏様の願いとでも言うべきものが働いていたからこその出来事だと思っています。
ですから、「なぜ私は生きているのか。」という問いは、「なぜ私は(仏様の願いによって)生かされているのか。」という問いへと変わります。そして、それに対する私の答えは、「私が仏様からの願いによってこの世に生を受けたのは、この私は、仏様の教えに触れさせて頂かなければならない無明なる存在であったからなのだ。」ということです。
ご質問に対するお答えになったでしょうか。少しでも参考になれば幸いです。
生きることに完璧に満足するまで輪廻転生する
たとえば、食べることに満足したら食べるのを止めますよね。
生きることも、生きることに完璧に満足したら生きること(輪廻転生)を止められるのです。
生きることに少しでも執着が残っていると、死んでもまた新しい生き物に生まれ変わるという輪廻転生をくりかえしてしまうのです。
たとえば自殺する人も、生きることに未練がなくて自殺する人はめったになく、すばらしい人生であればいくらでも生きていたいのです。
根本的には生きることに満足して「もう充分生きた」とはなっていないのです。
その場合、死んでもまた輪廻転生してしまうのです。