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お疲れさまでした。
うさぎ様
今年も一年お疲れさまでした。頑張って頑張って耐え抜いてきたのですね。本当によく頑張りましたね。
さて、何をどう頑張ってきたのでしょう?
それは頑張りたい事でしたか?頑張らないといけないと思っている事でしたか?
「こうでなければならない」「こうあるべき」「これが正しい」
ということのために頑張るのであれば、そうならないことがとても苦しいかもしれません。
いつのまにか自分でルールや義務を作ってしまってはいませんか?
そうじゃなく、
「どうなるかはわからないけど」ということを前提に「こうなってほしいなあ」「こうなったらいいなあ」と、義務ではなく目標のために頑張るのであれば、結果でなく頑張ること自体が楽しいものかもしれません。
頑張るにしても独りよがりの頑張りでは報われません。
掃除をするにあたって「窓を拭いてくれない?」と頼まれたのに、「よし!私は床をふこう!」と自分の思いだけで突っ走って「キレイに掃除しました!」と胸をはっても掃除を頼んだ人には喜んでもらえないかもしれません。
頑張っても頑張ってもしんどいのなら、一度立ち止まって
何を、どう、何のために、誰のために頑張っているのか見直していましょう。
それが独りよがりになっていないか?それが義務になっていないか?それがルールになっていないか?
頑張らなくてもいいんです。
でも
頑張りたいなら頑張ったらいいんです。
どうぞご自愛ください。
がんばらない
うさぎさん、ご質問ありがとうございます。
きっとあなたは、
これまで十分にがんばってきた。
これ以上がんばることは苦痛であると
思っていらっしゃるのでしょう。
がんばることには、よい面と悪い面と両方あるのだと思います。
何かを成し遂げるとき、通常の心持ちでは成し遂げられない。
だから、がんばる。
今まで以上の成果が得られる。
これがよく「がんばって」と言うときの思考だろうと思います。
でも、成果が得られるのではなく、苦しみを生み出すこともあります。
「がんばる」は、元は「我を張る」であったと言われます。
「我」に執着するところから苦しみが始まると仏教では教えます。
鎌田實先生は「がんばらない」というご本を著しました。
これまでがんばってきて、まだがんばらないといけないのかという人にとって、
「がんばれ」は励ましの言葉ではなく、苦しみの言葉になります。
あなたの今までのがんばりが、もし「我を張る」になっているのであれば、
がんばらないという選択も、十分意味があると考えます。
質問者からのお礼
吉武様、藤堂様。
ご回答ありがとうございました。
過去に数回こちらの方でご相談させて頂いた内容が、半年経ってもまだ、自分の中で解決出来ていません。
何のために頑張るのか。
誰のために頑張るのか。
私が頑張れば、安心してくれる人がいる。
私が頑張らないと、迷惑をかけてしまう人がいる。
その人たちのために、何が何でも頑張るしかない。
皆様の言うように、私は自分のためではなく、誰かのために頑張るしかなかったのです。
自分で決めた事なのに…
頑張って、立ち向かうって…
でも、半年経っても解決できていない。
このまま、ずっと苦しみながら生きていくことが、私に課せられた罰なんだ…と思うと、辛くて仕方がありません。
解決できていないと言うことは、実際は頑張れていないという事。
精一杯頑張って来たと思っているのは、自分だけなんでしょうね。