子どもが被害者になる事件と因縁について
自分の子どもが小さいこともあり、子どもが殺人事件の被害者になったり、交通事故に会ったりするニュースに触れると、自分のことのように心が痛みます。
仏教では、無常と因縁を説いておられますが、それほど悪を為しているとも思えない子どもが殺されたり、事故にあったりするのは、因縁としてどう考えれば良いのでしょうか?
前世の業と言われましても、それほどの業であれば人間に生まれないのではないか? とも思いますし、親御さんの気持ちを考えると、前世の報いというのも納得できないように思います。
お釈迦様がどのように考えたのか、教えて頂けると有り難いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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正しい知識を
そのような思想を「悪しき業論」と言いまして、日本仏教では差別思想として各宗派が僧侶に教育を続けています。
悪しき業論は仏教成立以前からインドの国教であったバラモン教の思想であり、ヴァルナ(カースト制度)の論拠です。お釈迦さまの思想はこの悪しき業論へのアンチテーゼです。
>過ぎたるにも
来たらんにも
はた 現在(いま)にも
いささかの我有(わがもの)というものなし
所有(もつこと)なく
取(まつわり)なし
われかかる人を婆羅門とよばん
(友松円諦訳『発句経』421偈、講談社学術文庫679)
つまりこのようなメッセージです。
「前世からの業、来世への業が大切なのではありません。そもそもの転生する自分というものが無いと悟りなさい。全ての現象は無常なのだから、どこにも自分は無いのです。
だのに、人は思考によって自分を実効支配しようとしてしまう→自分を実効支配するから、まだ占領していない他者という認識が発生する→自分と他者という間違った認識をするから、もっと欲しいとか、嫌だ!という執着や評価の心が発生する→この延長線上が生老病死の四苦。これが苦を生むメカニズムです。
この境涯は前世の報いだと言う者は聖者ではありません。無我という在り方を実践する者こそ、聖者と呼ばれるべきです。」
このようなメカニズム論が本来の仏教的因果論です。まぁ、仏教は八万四千の法門と呼ばれるほど色々ありますので単純には言えないのですが…
かつてのある宗教も元々は町のヨーガ教室だったものがチベット密教に興味を持ち、独学をこじらせて悪しき業論とポアを最も悪い形で解釈し、妄信しました。南伝仏教ではまた別のロジックがあるのですが、日本でこの手の思想を口走る人に出会ったら眉に唾をつけて聞いて下さい。最大限控えめに言っても宗門の教育が行き届いていない立場の人です。スピリチュアルが嫌われるのもこういった所です。
追記
悪意ある人の悪行に巻き込まれてしまった→理不尽である。
他に言いようはないと思います。理不尽は理不尽なのですから納得のしようはありません。悟ったような顔して納得していたら逆に気色悪いです。
そんな理不尽が少しでも発生しなくなることを目指し、我々は仏法を説くのです。出来ることをコツコツとやっていくしかありません。あなたのご職業もそんな社会を創るためにあるのではないでしょうか?
質問者からのお礼
回答有り難うございます。
お釈迦様が輪廻を信じていたか、は議論があるところだと理解しておりますし、時代的な背景として輪廻思想がベースにあったこともなんとなく読み知っています。
では、前世の業が無関係であるとすると、幼気ない子どもの死を、どう理解すれば良いのでしょうか? 子どもはなぜ死ななければならなかったのか? そこが分かりません。