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失恋しました

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先日、半年間お付き合いしたバツイチの彼とお別れしました。

別れたきっかけは、些細な喧嘩でした。喧嘩の原因はデートの最中に家の用事で元彼が急遽自宅に帰ることになり、誤りの言葉もなかったことから、それに対して私が不平を言ったことがきっかけでした。

自宅に帰ってから反省しその日のうちに、誤りのメールを入れたのですが無視され、翌週に約束していたデートもすっぽかされてしまいました。

私のほうから、デートの時に自分のとった態度について反省していること、一度ちゃんと話したいことを伝えましたが、最終的に彼の返事は「今までありがとう。幸せになってください」とメールで別れを告げられました。

その後、電話で元彼の考えていたことや、理由について聞いてみましたが、結局明確な返答はなく、友達の関係に戻りたいとのことでした。

私なりに別れの原因について、振り返り考えてみて思ったことは。。

付き合っていた当初より私と彼には気持ちの温度差があるように感じられ、その不安から彼に対して要求が強くなってしまっていたのかもしれません。

本当の原因は彼にしか分かりませんが、今は寂しさと後悔でいっぱいです。

これも、ある意味縁がなかったのだと割り切り、今回のことを教訓に前に進もうと思いますが、年齢的にも恋愛や結婚に希望を見出すのが難しく感じられます。

どうか、少しでも前向きになれるよう、心の持ち方についてアドバイスを頂けたらと思います。よろしくお願いいたします


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自我を滅するあり難い機縁とする

人間いつまでたっても自分の精神を向上させんという志の起こらない人は一生涯、自分の我、エゴ、自我で苦しむものです。
こう言っちゃなんですが、自分のエゴは自分でしかおさめられんものです。
その為にこそ仏道があるのです。
今後も四苦八苦、生老病死という現実が待ち受けているのに、その壁にぶつかって苦しむことが今後もわかっているのに、それを改めずして都合のいい生き方なんぞはありません。
占い師に金を払えばおべんちゃらを言ってくれるものでしょう。それはPAYしたからあなたが言ってもらいたい都合のいいことを根拠のないままに持ち上げてくれるヨイショ賃があってのこと。本当のことを言ってくれる人は少ないもの。
あなたの彼も本当のことを言ってくれたのでしょう。
私もホントのことを言っておきます。
人間、つねに最高のものを提供、プレゼント、布施されているもの。
「布施というは貪らざるなり へつらわざるなり」
本当の意味で自分を愛せる人は、今後の人生が苦しまないように自身をより良くしてあげられる人です。他人の愛なんぞはいつかは冷めるもの。あなたの真の伴侶はあなた自身。ところがその伴侶がいまグラついてざわついている。伴侶が一生安心できるような道を選択するべきです。賢い祖師たちはみなまず異性を追っかけるより「そう」した。
それを仏道という。仏道をならうと言うは自己をならうなり。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

アドバイスありがとうございました。まるで私の気持ちを見透かされてるかのようなお言葉でした。今はまだ気持ちの整理ができず、辛い状況ではありますが、いつか自分自身で立ち上がって、揺らぎのない人生を歩めるようにしていきたいと思います。

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