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心が折れそうな出来事の乗り越え方

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春から大学院へ進学する予定で、今卒論の執筆にヒーコラ言っている大学4年生です。
最近禅の教えに興味があり、ここで何度か質問したこともあります。いつもありがとうございます。

今回は、心が折れそうな出来事の乗り越え方について質問させていただきます、よろしくお願いします。
と言いますのも、実は卒論の出来が悪く(そも構想段階でしくじっていたのですが、もう後戻りはできません汗)、先生や先輩に指導の度ボコボコにされ、1ヶ月前ほどに情けない話ですが完全にメンタルを病みました。学問に対する知識も情熱も不足しているし、あぁなんでこんな悲惨な状況なのに大学院なんて志したのだろう、なんて思ってしまい、自己肯定感が著しく下がってしまっていました。今は優しい家族や友人のお陰で半分ほど回復しましたが、まだ卒論は懸案として残っていて、明日もゼミでボコボコに指導される予定です。以前の指導が少しトラウマになっていることも否定できません。もうそれは過去のことだというのに、こればかりはずっと頭から離れてくれません。それに、指導は決して私の人格を否定しているものではなく、私の為だとわかっているのにジリジリと心を焼いてきます。
こういった、心が折れそうになる出来事に対し、お坊さんはどのようにして乗り越えられてきたのか、お知恵をお貸しいただきたいです。お坊さんの修行は大変厳しく辛いものと聞きますし、とある禅寺では一切の自己が否定されるところから始まり自我が完全に消し飛ぶほどの修行を積むと伺いました。それでもお坊さんは修行中、心を病まずに(もしくは病んだ方もいらっしゃるとは思いますが、それでも)、成し遂げるのかと思うと只々尊敬します。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

お前はすでに死んでいる

北斗の禅こと「北斗神禅」の伝承者山田ケンシロウです。
"(-""-)"
ボコボコに?
そのボコボコにされた自分は今どこにある。
あると思っているのはキサマだけだ。
どこにどうボコボコになっているというのか。
単に自分が傷つきたくないだけだ。自分が恐れる最悪の事態を想定して勝手に恐れているだけだ。その恐れは「今」やっている今の一念にすぎん。百八の煩悩も所詮は今の一念。
今目の前に無いことを扱って勝手に恐れていたことを自覚するんだな。
アタタタ!"(-""-)"👉(゜Д。)あべしッ
もう一度言っておく。
「今目の前に無いことを扱っていた。」ここがわかるか。
まだわからないようなのでもう一度言っておく。
「今すでにないこと、今はまだないことを今思ってそれをアタマで取り上げて、勝手にあるかのように今思っているだけだ。」
タタタ!"(-""-)"👉(゜Д。)グエ
それからもう一つ。
言葉というものは時として南斗水鳥拳🐧のように頭陀頭陀に人を斬りつける。
言葉そのものは人を斬りつけぬと知れ。
その言葉を拾い上げ自分の都合にミックスしている自分が居るから傷つくだけだ。
それこそが自分を斬りつけている真犯人。
そう。それはオマエ自身だ。
拾い上げる自分があるから、自分の都合が生まれる。
黙って指摘されたことをそのまま聞いてみるんだな。
誰に言われたわけでもなく、そのゼミの奴らはただ思ったことを言っているだけだ。
その言葉を拾い上げて勝手に自爆コいてる自分に気づくことだ。
天に輝く星は誰のものでもない。
それをわがものにせんと人は拾い名づけるものだ。
言葉とて誰のものでもない。
この回答とて誰のものでもない。
天の言葉は天の言葉。人が拾うべきものにあらず。
言われた言葉を自ら傷つけるように拾い上げていたのはほかでもない。自分自身だ。
そこに気づけば、もうかつて言われたボコボコの言葉など無害。
もう既にその時言われた言葉は機能してないはずである。それが拾い上げなき心だ。
己を滅し、おのれを没するのである。
出しゃばる自分、しゃしゃり出る自分、認められたいと思うこざかしい自分をこそフルボッコ没己没己にするがいい。
拾い上げる自分を己の中からボッコ(没己)する時、言葉は機能すらしない。
己の影に打ち克った時、こう念ずるがいい。
「お前はもう死んでいる」と。
(゜Д。)ひでぶッ!

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

回答ありがとうございます!
昨日のゼミでは沢山の指摘をもらいつつも、恐怖に感じていたほどのものではなく、なるほどこれが丹下覚元さんが仰っていたことかと実感しました。今目の前にあるものを扱ってなかったんですね、私は…。
過去も振り返ればああすればこうすればと考えて後悔ばかりですし、未来を見れば恐怖しかない。結局は今しかどうにもできないんですね。行動に移すのは中々難しいかもしれませんが、日々今に生きれるよう練習します!

言葉を拾い上げてわざわざ斬りつけているというのは、新しい視点でした。傷ついた時、いつも頭の中は否定的な言葉に溢れるんですか、それはわざわざ言葉を拾って私に見せつけている”私”がいるのですね。”言葉を拾わない”という選択肢が自分の中にできたことが大変心強く、感謝しております。ありがとうございます😊

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