参拝・お守りの効果を感じられなかった翌年はどうすれば…
明けましておめでとうございます。
昨年もあまり良い年ではございませんでしたが、このサイトのお坊さんには本当にお世話になり、なんとか最悪の事態は免れているところでございます。ありがとうございます。
さて私事ですが、某寺に原則毎年参拝しております。そのお寺関連の学校に通っていたこともあり、学生時代は毎年参拝していました。就活で苦しんでいた時、初心に帰り7年振りにそのお寺を参拝したところ、内定が決まったのをきっかけに、以降毎年参拝するか若しくはそのお寺でお守りを授かるようにしてきました。2016年、悪いことが起こったのはその年に参拝も御守り授与もいけなかったからだと思い、昨年は参拝もし、お守りも授かったのですが、良い一年ではございませんでした。
現在は遠方に住んでいる関係で参拝は困難なのですが、今年、お守りだけでも授かった方が良いのでしょうか?それともこのお寺とは見切りをつけ、別の神社仏閣にて授かるべきでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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仏法を守る
明けましておめでとうございます。
う~ん…お守りを扱っているお寺さんを前にして非常に申し上げにくいのですが、お守りを授かったからといって、あるいはお寺にお参りしたからといって、はたまた神仏に祈ったからといって、悪い事は減りませんし、良い事は増えません。
なぜなら、物事に良い悪いがあるわけではなく、ましてや神仏がその人を見て良い物事・悪い物事をもたらしているわけでもなく
良い悪いは本人の心が決めているから!
です。そういう心で物事を見る限り悪い事は目につくでしょうし、良い出来事の喜び・感謝も半減してしまうでしょう。
お寺のお守りは仏法を守るものとお考え下さい。つまり、自分のその時その時の価値基準で良い悪いの裁きをしている自分の姿をあきらかにする教えを護持するためのお守りです。
悪い出来事が起きなくなるのでなく、悪い出来事を悪いと判断して排除しようとしたり、責任を背負えなかったり、文句ばかり言っていたり、当たり散らしていたりという自分の姿を自覚するためのお守りにしましょう。
仏教は内観道です。自分の内側を観る教えです。自分の外側の環境がいくら幸せになったからといってそれを見る自分の心が善悪の分別に執着している用では幸せを享受できません。
良し悪しは自分が決めています。
お寺を変えても、お守りを変えても、問題はそこではなく自分にあるのです。
真理の得心
くりりん様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
まあ、善いことも、悪いことも色々な因縁(原因と条件)次第で起こるものであり、それは拙生も同様でございます。
もちろん、良いことが起こるに越したことはありませんが、お寺に参拝する、御守りを頂く、ということで良いことがあるならば、私たち僧侶など、毎日毎日良いことがあるはずですが、全くそうではありません。
良いこともあれば、悪いこともある、しかし、吉武文法様もおっしゃられておられますように、自分の心に揺ぎ無いもの(真理の得心)があれば、まあ、どうってこともなく、平安、安心、無事に平常に過ごすことができるようになるのであります。
その真理の得心の一つとして、「全ては、縁起し空である」ということもございます。
是非、これを機縁により仏教に関心を高く持って学び修していって頂けましたら有り難くに存じます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
ありがとうございました。
自身の日頃の行いを見つめ直し、精進してまいりたいと思います。