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なんでも裏目が出てしまう。

回答数回答 3
有り難し有り難し 36

自分を大切したいと強く強く
思えば思うほど、
矛盾してるのですが、
まちがっている行動を取ってしまいます。

何度も何度も、今度こそはと思っても
そんなことをしてしまう自分に
嫌気がさします。

あと一歩踏ん張れば、
自分のほしい良い結果が出ていたのに
それは頑張らないでとても後悔して、

それを反省して、今度は、
我慢してやり続けて、ガンバったことは間違っていて何もならない無駄な苦労だったりしたり。。。

裏目が出てしまいます。

人との関係もそうです。

人を疑ってひとりぼっちだったけど
もう一人はいやだ!と
自分から心を開いてみようとして
思い切って心開いた人には、
お金を騙されました

本も読んだし、セミナー行ったし、
カウンセリングにも相談してます。
でも、プロの人に
相談しても自分に合う 相談相手じゃなくてショックを受けます。
なんでうまくいかないの。

辛いねとか
慰めじゃなくて、

なぜ、どうしてこうなるのか
がわかりません。

頑張っても報われない。
疲れちゃった。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

期待・理想設定がキラキラ過ぎ

そんなにうまくいこうもんなら私なんか今頃マイケル釈尊になって新興宗教の教祖様で世界中の人を救っています。❝ホー!(法)❞
ゴール設定が、なんか自分の理想ビジョンが高すぎるような気がします。
それは小さな完ぺき主義のようなもの。
もうすこし、理想を目指すビジョンより、今の階段をこけないビジョンに切り替えましょう。
昨日こけた。
痛かった。
だけど、もうそれは終わった。
今あなたの眼も耳も、ココを観ている。ソコを聴いている。
誰も思っちゃいない、あなたの失敗なんて。
それは「誰かが私の失敗をわらっているんじゃないか」というあなたの妄想。
「自分がもう少しカッコよくありたかったけどうまくいかなかった」というガッカリ感。
それは喪失感。
心の中で失わせているのです、あなたが。
笑いとって周りを盛り上げたと思いなさい。
踏み台になってみんなを浮かばせた上げたと思いましょう。
他の誰かに花束を受け取る役をパスしてあげたと思いなせえ。
そこで厄を使い尽くしたから、次は宝くじも当たるぐらい運気が上がっているとでも思いなされ。
こころを喪失させてはいけない、ヨ?(・ω・)
心が、それを喪失させているから、あなたの中でいつまでも痛いんだよ?('Д')
ありゃ、いい勉強になったと思ってごらん。
喪失じゃないものに変えてごらん。
そういう心のカスタマイズ法を学ぶきっかけに過ぎなかったと思ってごらん。
ほら、もう、あなたの心のなかでは痛みではなくなったでしょう? キラッ (キメ顔)

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

それでも「辛いね」と。

カウンセリングの技法とかが一般的に知られるようになってきて、カウンセリングする方は「まずは相手の気持ちに共感せよ。気持ちを表す言葉が出たら、それを繰り返せ」と習う。それを実践しているのですが、まるでネタをバラされた手品師のように、「ハイハイ教科書通りですね」的な感覚で受け止める。「それより、私のこの疑問に答えてちょうだい」というところですね。
これね、たいがい「自分の気持ちを味わっていない」状態なのです。「ああ私、辛いなぁ」と向き合わずに、すぐ「何で?」と、違うところを見たがっている。すぐに「自分の問い、の答え」に行きたがる相談者に対して、「一旦、今の自分を味わってよ、認めてよ」と引き戻しているのです。そのメッセージを受け止めてない。
そもそも、相手がナゼ、今の状況になっているのを言い当てるなんて無理。自分で気づくのを促す・待つのがカウンセリングの基本と思います。本人が解決するのに並走しようとしているだけなのです。ここに書かれた情報だけで他人が解決できるはずがない。皆んな推論を述べているだけです。
で、いま私が言ってあげたいことは、「人生は基本、試行錯誤ですよ」ということ。子どもたちは普通に試行錯誤の生活をして平気でいるのに、大人になるとできないんだな、忘れちゃうんだな、これが。あとデジタルに染まっていると感じる。極端から極端へ。でもね、それを繰り返す中からこそ、「いい塩梅」は生まれてくると思います。

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有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

努力の方向性

全てが裏目に出る。
確かに何をしてもうまくいかない人はいます。
努力しても結果に繋がらないなんて日常茶飯事。
いい加減嫌になります。
やる気がなくなります。

そんな時は箒(ほうき)で掃き掃除をしてみます。無ければ掃除機で構いません。
まずは一所懸命に掃除してみる。
次にダラダラと掃除してみる。

結果、ダラダラと掃除した方が綺麗になります。力を抜く。適当にする。そんな生き方を基本としてみてはいかがですか。

努力の方向性が間違っていることもあるようですが。

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有り難し
おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

質問者からのお礼

生真面目すぎたのですね。
もうこんな失敗ばかり死んでしまいたい

冷静さを失ってはいけないのですね。
自分が犠牲になる努力など、二度としません。

愚かでした!
自分をより一層精進させます。
ハッとしました。
お答えくださり、心から感謝いたします。自分で考え最後の決断は自分でしますが、悩むときは
また相談にのってください。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ