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自分を愛するにはどうすれば良いでしょうか?

回答数回答 2
有り難し有り難し 19

人に言えない過ちを犯し、相談させて頂いた者です。

その過ちについて、相手方との清算は済みました。そして、家族や信頼出来る知人にも告白して相談しました。

ただ清算は済んだとはいえ、してしまった事実を消すことが出来ないことへのわだかまりが晴れず、悩み苦しんでおります。

この悩みについて突き詰めると、自分を許せないことにあるのではと感じております。

過ちを犯した自分を許し、自分をもっと愛したいです。

自分を客観視して、自分自身を抱きしめていたわってやるような想像を試みたのですが、どうもうまくいきませんでした。

どうか「心のコリ」をほぐすアドバイスを頂けますと幸いです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

千手観音行

30の悪事をなす人も、1000の善事を為すことによって、その罪は消じてゆくものです、
悪いことをしてしまった。
それに向き合い、誠実に懺悔した。それは誠実です。
その気持ちをもって、日々懺悔の気持ちをもってください。自分を責めることではありません。
ああ、すまなかった。
手を合わせてください。
そうしていくなかで、自分の力を持って世の中のために力を使ってください。
誰かのお役に立つ。
そうすることであなたは心が社会復帰します。
誰かのためにかけがえのない存在になります。
それを続けていってください。
千手観音という仏様がいます。
千本の手がある、というより千の仏行を行った菩薩です。
あなたがこれからそれに向けて日々、3つでも5つでも行うのです。
今日はあなたはこの話を聞いてその誓願を起こしてくださいました。それが一手観音です。千の行に向かって精進してください。必ず自分を愛せるようになれます。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

抱えたまま生きる

人はみな、自分のした事の後悔を抱えたまま生きるよりありません。私を含め、恐らく回答して下さる僧侶のみなさんも、何かしら過去の後悔を抱えている筈です。それを忘れて、真っさらに生きる事はできません。だからこそ、人は謙虚になれるのです。それができないのは、子どものままでいたいピーパーパンです。
だから、こう考えては如何でしょうか。
自分を100%許すことはできない。しかし100%許せない訳でもない。自分の過去の過ちは忘れず、ゆえに「生かしてもらっている」という謙虚さを忘れない。
これは、お互い様なのです。もしあなたが「真っさらな、何も悪さをしたことがない人でなければ信用できない」というのであれば、誰も何も言うことはできません。世の中、お互いに許し許される関係であるからこそ、「せめて何かしら言ってあげられる」というものです。
私が見たところ、あなたは「デジタル思考」に陥っていると思います。思考や言葉の上では成り立つものですが、実態に即してはおりません。あなたが謙虚さを身につけることは、実は他者への寛容さを身に付けることでもあります。「謙虚さ」、どうぞ心の片隅に。

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有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

質問者からのお礼

どうも有難うございました。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ