心の狭さについて
自分の心の狭さに辟易しています。
相手がどんなに仲の良い友達でも、恋人でも、人が成功した話や自慢話などをしているのを聞いていると、本当に嫌な気分になって、心がもやもやしてしまいます。
祝福すべき話題でも、素直に喜べたことが今まで一度もありません。
先程、電話先で相手が些細な自慢話をしていた際、「それでも褒めなくては、頑張ったねと言ってあげなくては」と思い、もやもやした苦しい気持ちを抑えて「すごいね!いつも頑張ってるもんね」「人気者だね」などと声をかけたのですが、心を押し殺して発言したためか言っている最中に泣いてしまいました。
お世辞を言うことすら泣くほど嫌なのか、相手の話を素直に聞いて相手と共に喜んであげられないのは人間としておかしいのではないか…ととても不安になり、どうすればこの醜い心に少しでも余裕を持てるのか、ご意見をいただきたいと思い投稿しました。
一人っ子で親に甘やかされて育った部分はありますが、両親とも人間としてとても良く出来ていて、特に母は慈愛の心に満ちています。母を見て育ったので、母はあんなに良く出来た人なのに自分はどうしてこうも心が狭いのか、と昔から悩んできました。
自分でも自慢話はします。それなのに、人にされると面白くなくなって苦しくなってしまう。そんな心の狭さはどう克服すればよいでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
心が狭いんじゃなくて、あなたは素直な優しい子だったんだよ。
あなたは、素直な人ね。
おかしくなんてないよ、みんな そんな心を秘めている。
仏教でいう 煩悩なの。自分にないもの、自分より優れているもの、自分が手に入れたいものを相手がもっていると、たちまち人間は、相手を妬ましく思ったり、苛立ちや悔しさが、無意識に込み上げてくる。
それが、人間なんです。愚かだし醜いよね。でもね、そんな気持ちが無い人なんて、この世にはいないんだよ。みんな、こんな煩悩を抱えています。口には出さないし、気持ちをコントロールしているけれど、誰にだって起きる感情なの。私にもあります。お坊さんなのにね。
お坊さんは、そんな自分の姿をちゃんと知っています。自覚している。だからこそ、誰かと比べたって仕方ない、私は私を大事にすればいい、誰かの何かに気づいたら それはその人のことなんだから それでいいんだ、と思える。
自分の自覚は、相手を受け入れていきやすい。どんなときもあるし、いろいろあるけれど、誰でもない自分が ちゃんとそこにいていいし、誰かと違ってていい。
無理に褒めたり、喜ぶ気分になれなくていい。
凄いな、やったね、と思えば、伝えればいい。
無理して良い子ちゃんにならなくて、いいんだよ。あなたの良さも、ちゃんと誰かが見ていて、ちゃんと分かっていてくれているんだよ。心が狭いんじゃなくて、あなたは素直な優しい子だったんだよ。