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自分の発言に対して

回答数回答 3
有り難し有り難し 18

現在の仕事を辞めるつもりでいます。原因は年下の同期の女性に対する上司の態度に義憤を覚えたからです。

彼女には2歳になろうかという子供がいます。まだまだ親の手が離せない年頃ですが、それでも上司は仕事を優先させるよう圧力を掛けるのです。

自分はまだ独身ですが、過去に今回のようなモラハラ経験があるので彼女の気持ちがよく解るのです。そんな彼女や、私と同じように上司に不満のある同期複数人に「辞めてもいいんじゃないかな?」と話し、同意はしてくれたのですが自分は出過ぎた真似をしたのではないか、と今になって迷いが生じています。

自分は常に弱い者の味方でいたいのです。ですが「正義は振りかざした瞬間に悪になる」事も理解しています。彼女等を、自分を救うにはどうすればいいのか、お言葉を頂戴したく思います。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

会社は仲良し倶楽部ではない

物分りのいい人ばかりではありません。
世の中優しすぎると思いませんか。
優しさを履き違えている場合もあるのでは、と静かに考えてみる時間が必要です。

パワハラと言ってしまっては上司が部下を統率できなくなってしまいます。
理不尽と思っても部下は上司に従ってこそ
組織としてまとまっていきます。

会社は仲良し倶楽部ではありません。

嫌なら辞める。それも一つの選択でしょう。しかし、あなたがもし、今の上司の立場になったなら彼女たちを救うことができるかもしれません。

中長期的に考えて、今は堪え忍ぶことが懸命かと存じます。

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おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

公憤で興奮しない。

公の怒りは公の怒りとして怒るのは良しとしても、それで感情的になってやめるまで行かなくてもよいのではないでしょうか。
正義はもっと柔軟なものであるべきです。
韓信の股くぐり、忠臣蔵の志士たち、みな大義のために自らの公憤をおさめて大義のために柔軟な正義を選択したと言えましょう。
そこはぐっとこらえて、もっと長く残って、そういう差別、不条理、不正等を根こそぎ撤廃することの方が優れた正義です。
また、正義という事もそろそろ仏教的に解脱してみましょう。
誰かにとっての正義は誰かにとっての非・正義です。
正義という観念はある種危険思想的な所があります。
正義にも質があります。
わたくしという意識が混じっていないものほど純度が高いものです。
どんどん「わたくし」を削っていくと、仏道になります。
正義という狭い思想から、より柔軟な、独創性のある正義、誰も傷つけないおおらかな万人にとっての正しいありよう。
それが仏法です。
人が介入しないのです。
その目線で解決しましょう。この話は誰にあげれば誰も傷つかずにお互い苦労せず傷つけずに事がうまく運べるか。
違ったアプローチで臨んでみてください。
それが柔軟性ある正義です。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

救うというより 、絶えず気に掛ける姿勢を保持する

斉天大聖さん

2歳の子ども抱えた女性に対して
上司は仕事を優先するように圧力をかける

それに対して
“自分は常に弱い者の味方でいたいのです。”
という感情は大変尊い感情だと思います。

ただ
“現在の仕事を辞めるつもりでいます。”
というのは一体どういう結果をもたらすのでしょうか

スッキリするということはあるかも知れませんが
お互いに不安や負担も増えてしまうような気もします。

今の職場で、子どもを抱えた女性が
子育てをしながら、仕事も出来るように
周りに働きかけ、サポートしていく

彼女等を救うというより
絶えず気に掛ける姿勢を保持していく

という長い目で関わっていく選択肢も
視野に入れてみて下さい。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ